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その他
hydrangea(アカギ:市アカ)

ざわざわ、ざわざわ



それは小波のように止むことなく自分の中で波打っている




hydrangea



「おや、市川のじいさん、買い物帰りかい?」

自宅へと続く最後の角を曲がった所で、闊達な濁声が正面からぶつかった。
それは二つ隣に住んでいる気の良い主婦のもので、市川にとって馴染み深いものだった。
あぁと答えると、息を吐く気配がする。


「全く水臭いったらないよ…言ってくれれば夕飯の買出しついでに買って来るんだから」

少し拗ねたような声音。
明快な感情表現に市川は僅かに苦笑する。

普段から何かと世話になっている彼女には、代打ちの収入がある度に多少の礼金を渡していた。
それ程多くもないその金は、市川が思った以上に彼女の家計の助けになったようで、今ではすっかり礼金の為に手助けしてくれているようになっていた。

そんな彼女を市川は卑しいと思わない。

例え礼金を払わずとも、彼女はある程度の手助けをしてくれるだろう。
元々は無償で世話を焼いてくれていた善良な人間なのだから。


そのほのぼのとした関係に利を持ち込んだのは自分。

利が絡めばその分関係は強化され、有事の際の保険になる。

市川にとってそれは、ただの好意、親切心よりも遥かに信用出来た。


(そう、自分の方がずっと卑しいのだ)


利用し益を得ているのは自分の方。

だがその事に対して罪悪感を感じた事はない。

それ位の計算高さがなければ、盲目の老人が一人生きて行く事等出来よう筈もない。


「偶には歩かねぇと体がなまっちまうからな。
今度は頼むよ」

そう言うと、主婦は納得したようにじゃあまた、遠慮しないでねと親切に念を押すと、市川とすれ違う。
その瞬間、冷たい風が吹いて、安物の石鹸が香った。
甘い匂いが吹き消された後、すん、と埃の混ざった水っぽい匂いが市川の鼻をつく。

「買い物に行くのなら傘を持って行くといい」

「え?」

振り向いたらしい主婦の、呆気にとられたような声が背にぶつかる。
空を見上げ確認しているらしい間が空き、晴れてるじゃない、と訝しそうな声が言う。

「良いから持って行きな。帰りに濡れたくないのならな」

そう言うと、市川は自宅へ向かって歩きだした。



ゆっくりと杖と感覚を頼りに家へ辿りつく頃には、水の匂いが格段に強くなっていた。
もうそろそろ空も暗くなってくる頃だろう。

手探りで雨戸を閉めてから半時もすると、ぽつぽつと雨が戸を叩き始めた。

濃密さを増した雨の匂いと気配で、小さな家はすぐにいっぱいになる。

通り雨というには量を増やし続けているその音に、市川は軽く眉を顰める。
この調子だと思ったよりも長雨になりそうな気配だった。

普段から杖を突いている市川は、傘を差すと両腕が塞がれてしまうので、転倒時の危険が常人に比べずっと高い。
更に盲目の老人となれば、雨の日に外出するよりは多少不便であろうと家に閉じこもっている方がずっとマシだ。


(まぁ別段用もないしな)

昼の内に買い物に行っておいたお陰で一日二日出歩かなくても済む位の食料はある。
代打ちの仕事も疎らで、殆ど縁側でぼんやり日向ぼっこをしているような日々だ。

気楽な独り身といえば聞こえはいいが、自分がただの根無し草である事は市川自身が一番理解している。

今はまだ体が動き、代打ちの仕事をこなして収入を得る事が出来るが、その日常にいつ終わりが来てもおかしくはない。

目も見えず、身の回りの面倒を見てくれる家族もない自分には、その先等ある筈もなかった。


(だからどうって訳でもねぇが)


覚悟という程大それたものを抱くまでもなく、その日が来る事を市川は知っている。

人の手を振り切り続けた者の成れの果があるとしたら、それは正しく自分だろうとも。



「…いけねぇな。暇だとつまらん事ばかり考えちまう」


ぼんやりしていた自分を嗤うと、市川は真っ暗な部屋で食事の準備を始めた。




市川の予想通り、質素な食事を終えて床に就く時刻になっても雨は依然として降り続いていた。

布団に横になると、湿った畳の匂いが鼻につく。
人によっては湿っぽいと嫌う者もあるだろうが、市川は割合その匂いが嫌いではなかった。

見えない目を閉じる。
雨の日は水の匂いと降り注ぐ雨の気配が常に市川の知覚を刺激し続ける。

常人には何でもないそのささやかな事柄は、視覚の代わりに他の感覚が発達した者にのみ一際重苦しく圧し掛かって来る。

昼は何とか気を紛らわす事が出来ても、寝る段になると途端にそれはねっとりと存在を増して絡みつき、安らかな眠りを妨げる。


その重苦しさをやり過ごす術も持たなかった若い頃、長雨の夜を密かに恐れていた。
況してや雨が断続的に降り続く雨期は拷問に等しく、商売女の助けを借りてやっと眠りにつくという有様だった。

雨の夜が来る度にその頃の事を思い出し、市川は一人笑う。


老年期に入った今、恐ろしかった筈のそのざわめきは、長い夜を共に過ごす貴重な友となっていた。
雨音に耳を澄ませながら、常に目の前に横たわっている闇に眼を凝らす。

そうして内へ、内へと意識を凝らしていくと、次第に体が空っぽになり、虚ろな空間を降り注ぐ雨が満たし、まるで水の容器にでもなったような錯覚を覚える。


その瞬間市川は完全に透明な存在となり、全ての柵から解き放たれる。

それは例えようのない感覚であり、もしもこの瞬間に命が終わったとしても、一片の悔いもないだろうと思えた。


(戯れ言を…)


ぽつっと泡が浮かぶように自分の嘲笑う声が聞こえた。

自ら死ぬ事も出来ず、ただ無為に生きながらえている癖に。

家族やそれに類する大事な者を一人として持たぬ癖に。


そんな一生に何の意味がある?



(またこの問いを繰り返すのか…)


何度向かい合ったかも知れぬお馴染みの問いに、自分の事ながらやれやれと呆れながら、市川は眠ってしまうべく意識を他に散らそうとする。


その時カタ、と微かな音がした。
雨音に紛れて聞こえたそれが、自分の家の雨戸を開く音であると鋭敏な耳が教える。

一瞬音を増した雨音が再び遠くなり、音を殺して誰かが廊下を歩んでくる。

相手は一人、そう体重もない、恐らくは女子供であろうとその足音から判断した市川は、枕元に置いた杖に伸ばしかけた手を、再び布団の中に戻した。


物取りではない、だとしたら一人しか思い当たる者はいない。


すっと襖の開く音がし、微かに畳が擦れる音をさせて、その気配は市川の足元に忍び寄る。

布団の上に這い登って来るその重みに、市川の老体が僅かに軋む。

市川は思わず舌打ちし、無礼な客に声を掛けた。


「遊んでほしいなら昼間に来な、クソ餓鬼」

小さな含み笑いと共に、枕まで到達したらしいその頭から冷たい雫が垂れる。

どうやらずぶ濡れのまま人の布団に乗ってきたらしい。
つくづく嫌な餓鬼だと内心毒づいていると、ひそ、と耳元で声がした。


「流石だなジジィ。声を聞かなくても俺が誰だか分かるんだ?」

「当たり前だ。こんな無礼な奴、お前以外に儂の周りには居らん」


クク、と楽しげに笑ったその声は予想通り、先日自分を完膚無きまでに負かさせた張本人、赤木しげるのものだった。

知り合い所か敵だったこの少年が何故自分の家を知っており、こんな真夜中に無断で上がり込んでいるのか、一瞬考えかけて市川は止めた。

どうせ意味等無い。

この人間とも思えぬ餓鬼の思考等、ただの老いぼれの自分に理解出来る訳もないし、したいとも思わなかった。

そんな市川の心を読んだかのように、赤木の頭がじゃれ付く様に首筋にこすり付けられる。
髪を掴んで押しのけようとするが、伸びてきたしなやかな腕の冷たさに思わず竦む。

まるでずっと雨に打たれていたかのような体温だった。


「ねぇ、何で俺だって分かったの?」

問いながら、冷たい指が市川の頬を這い上がってくる。

「足音だよ。廊下の軋み方が大人のものじゃなかった。
儂は餓鬼に知り合いは多くない」

「へぇ…手品みたいだな」

面白そうに呟いて、赤木は飽きるでもなく市川の顔をぺたぺたと触った。

(何が珍しいんだか)

うんざりしながらお返しとばかりに手探りでその顔を探ると、濡れた毛が手の甲に張り付く。
雨宿りをした気配のないその冷たさに、こんな真夜中までこの餓鬼は何をしていたのだろうと小さな疑問が浮かぶ。


(…まぁ、どうせ儂には関係ない事だ)

直ぐにどうでもよくなって打ち消し、手を鼻の方へと移動させた市川は、おや、と動きを止めた。


つんと上を向いた睫の上、ふっくらと瞼が隆起している。

どうやら頭上の子供は眼を閉じて自分に触れているらしい。


市川は盲目故明かりというものが必要ない。

当然この部屋も真っ暗な筈で、常人ならば少しでも明かりを得る為に眼を凝らすのが自然である。


(この餓鬼に普通もへったくれもねぇが)

しかし解せない。
その真意が分からず、市川は両手で閉じられた瞼を撫でた。

赤木の指が市川の瞼にかけられ、無理やり開かされる。

開けた所で何も映らない眼を抵抗せずに開けてやると、目尻を暖かなものが撫でた。

どうやら舐められているらしい、とその柔らかな感触から感じた市川は、引き剥がそうと濡れた髪に手を突っ込んだ。


「なぁ、ジジィ。俺もあんたみたいに見えなくなれば、分かるようになるのかな」


唐突に突きつけられた問いに市川は動作を止める。

何が、と問い返す間を与えず、ひんやりとしたものが唇に重なった。

先程まで自分の目尻を舐めていた舌が口内に侵入して来るのを感じながら、その歳からすると不相応に慣れた行為をぼんやりと受け止める。

冷たい唇が首筋を舐め、下っていくのを好きにさせながら、市川は漸く全てを理解した。


(ああ、こいつは本当に)

深い溜息を漏らし、喉の奥で笑うと、首元に埋まっていた頭が自分を覗うように離れた。

手探りでその頭を捕まえ、引き寄せて口付ける。

少し驚いたような気配がしたが、思いがけず従順に赤木はそれを受けた。


「目が見える見えないの問題じゃねぇよ、餓鬼が」


本来この唇を受け止める義務等自分にはない筈だし、そんな親切心は欠片も持ち合わせていないつもりだったが、どうやら歳を取るのと感傷主義は不可分のものらしい。


体に触れる、交わる、それしかコミュニケーションの手段を持たない、酷く不器用で歪んだ形の器。

なのにその中には、並々と透明な水が注がれていて、それ故に身動きが出来ない。


「全く、難儀な餓鬼だな…」



(お前が欲しいのは、儂ではなく他の奴だろうに)


引き寄せた首筋を辿り、鎖骨を軽く噛むと、小さな吐息が耳に触れた。

濡れたシャツの下の肌を弄ると、じんわりとした熱が掌に馴染む。


その慣れた反応に胸を痛めるには、自分は歳を取り過ぎている。




「教えてやるよ」



徒に体を重ねた所で、得るものは何もない事を



お前が求めているそれは、その遣り方では生涯得る事が出来ぬものである事を



自分もまたそうであった事を



(だから、お前は違う生き方をすればいい)



死ぬ瞬間、多くの者の顔を見て逝けるような、そんな甲斐のある人生を送ればいい


いつからこんなに親切になったのだろうと自分でも呆れながら、市川は子供の滑らかな肌に唇を寄せた。





















似た者同士だからこそ、市川さんは赤木の背を押してくれると思う。

なのでウチの市アカは厳密にいうとカプではありません。


Hydrangea…紫陽花の英名。水の容器の意。




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