空(助けられた猫のお話)
Celestial CatVA
「鬼鮫!」
イタチに招かれるままに、鬼鮫はその横に立った。
珍しくはしゃいだように声を上げた彼女の瞳は、じっと水槽に注がれている。
「どうしました?」
「…」
水中を優雅に回遊する鮪を見ていたイタチは、半ば陶酔するようにうっとりと呟いた。
「美味しそうだな…」
「…」
鬼鮫は何も言わずに水槽を見た。
自身の危機など知らない鮪は、のんびりと上へと昇って行く。
「……イタチさん、申し訳ありませんが、ここの魚は食べれませんからね」
「…そうなのか」
残念そうなイタチを見て、妙に心が痛んだ。
もしも彼女の耳が出ていたら、間違いなく萎れているだろう。
「お昼は…お魚に、しましょうかね?」
「…ああ」
鬼鮫の言葉に、心なしか元気が戻ったように見えるイタチは、再び水槽に目を向けた。
その後ろに立った鬼鮫は、困ったように苦笑する。
まさか、イタチさんがコマーシャルを見てたのって。
何となく、嫌な予感がする。
けれど、
「綺麗だな、鬼鮫」
そう笑った彼女の微笑みは、
どんなに華麗に遊ぶ魚よりも綺麗なものだったから。
そんな杞憂は何処かに消えてしまって、鬼鮫はイタチにつられるように笑ったのだった。
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ざん、と波が打ち寄せる。
サンダルを脱いだイタチは海水に足を浸しながら、じっと水平線を眺めていた。
細かな砂が白い足首を撫でるように取り巻いては、また海へと還っていく。
水族館の裏手にある海。
昼食を終えた二人は、腹ごなしにと散歩へ繰り出していた。
他の観光客は皆、水族館を主な目的にしてやってくるためか、鬼鮫とイタチ以外の人間は見当たらない。
猫は水が嫌いだと言うけれど、
イタチはそうでもないのかもしれない。
イタチのサンダルの砂を叩きながら、鬼鮫はぼんやりと思った。
思えば、イタチと出逢ったのも雨の日だった。
鬼鮫は、あの土砂降りの夜に想いを馳せた。
あの日から、もう随分と経ったように感じられる。
けれど、実際はまだ一月とちょっとしか経っていない。
海独特の、痛みにも似た感覚。
潮風が鬼鮫の頬を撫でていった。
ずっと、
一緒に居たような気がする。
そして、気が付けば、
あと少しの間しか、一緒にいられないのだ。
イタチと。
そう思うだけで、
つきりと、まるで軋むように響く音が聞こえる。
それに気付かないふりをして、鬼鮫は自分のポケットを確かめるように一度撫でると、ゆっくりとイタチに近付いて行った。
「イタチさん」
「なんだ?」
振り向いたイタチの頬は、潮風に焼けたのかほんのりと紅い。
鬼鮫は風に流れる彼女の黒髪を一筋手に取ると、恭しくそれに唇を寄せた。
イタチの甘い香りの中に、
爽やかな磯の匂い。
「…きさめ?」
「貴女に、渡したいものがあるんです」
そう言った鬼鮫は、自分のジャケットから小さな黒い箱を取り出した。
掌に余る程度の大きさのそれが、陽光を受けて輝いている。
「…これは?」
「開けてみて下さい」
数秒前よりも早く脈打つ鼓動を感じながら、鬼鮫はその箱をイタチに差し出した。
迷うように宙で止まった彼女の手を掴んで、半ば押し付けるようにそれを渡す。
イタチは不思議そうに首を傾げたが、鬼鮫が頷いたのを見て、おずおずとそれを開けた。
「…!」
箱の中のものに、イタチはその深紅の瞳を瞬かせた。
言葉もなく鬼鮫を見れば、少し照れたように後ろ頭に手をあてている。
「いや…私、本当に、なんといいますか、贈り物とか、そういうものが不得手で…気に入って、いただけるか、どうか…」
自信の無いように眉を下げる鬼鮫の前で、イタチは箱の中身を手にとった。
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