大学生と講師のシリーズ
揺れる、揺れる(4年7月) 5
松下が振り返るより前に、早智子の足音が近付くのがわかった。こつり、と肩甲骨のあたりにかたいものが触れ、松下は少し、緊張に身震いした。
続けて背中に触れる手の熱、吐息、体重を預けるほどではない寄り添い方に、松下は自分が高揚していくのを感じた。
(……触れたい、)
それは理屈よりはやく体を駆け抜け、松下に持っていた荷物を捨てさせた。どさりと地面に落ちた荷物に驚くように身を離した早智子を、振り返った松下は強引に、腕にとらえた。
せんせい、と、早智子が自分を呼ぶ声を、かすかに聞いた気がした。ごくかすかに。
早智子の声も小さかっただろうけれど、それ以前に松下はちゃんと五感が働いている気がしなかった。
「……松下、先生……?」
幾分かはっきりとした声で呼ばれた声に、松下ははっとして腕を緩める。
早智子が下から見上げて来る。呆然と、唖然と、そして、狼狽えている瞳で。まだ、潤んだ瞳で。けれどそれでも早智子は真っ直ぐ松下を見ている。そんな早智子の視線を、ひどく久しぶりのように感じた。
しばらくどちらもが動けずにいた。早智子は抱き返そうとも、逃げようともしなかった。ただ、ただ静かに、松下を見ている。
まるで子供のような瞳で見つめてくる癖に、なぜか艶めいて見えるその表情は、早智子のせいか、自分のせいか。そんなことを考え、松下は小さく笑う。早智子もわずかに、くちびるで笑ったように松下には見えた。
早智子にまわした手を離し、松下は小さく、呟く。
「……すみません、」
その言葉にわずかに目を見開いてから、早智子はまた、俯いた。ただ、
「いいえ……」
とだけ、答えた。
声音はいつもと変わらなかった。松下はひとつ息をついて、早智子から一歩さがる。早智子は素早くしゃがみこむと、先刻松下が投げ捨ててしまった鞄を拾い上げた。
はっとして松下が手を伸ばした時には、既に彼女は鞄を持って立ち上がっていた。
「持ちますよ、」
松下は早智子にそう、声をかけた。
「いいえ、」
毅然とした声で、早智子は拒絶の言葉を述べる。
「いいえ、迷惑、かけたく、ないので」
「迷惑、なんて……」
「私は、一人で、荷物も持てます。一人で、帰れます」
「……早智子さん?」
「お借りした本は、なるべく早く、返しますから、だから……」
松下から、早智子の顔は見えない。声は毅然としていたけれど、松下の中で何かが警告している。
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