大学生と講師のシリーズ 揺るがないつめたさ(4年6月) 1 肩の横をまっすぐ伸びた背筋ですり抜けた早智子に、松下は呆気にとられてひきとめることすら忘れていた。 研究室のドアノブがまわされる、かすかな、かしゃ、という音がなぜかひどく鮮明に耳に届き、松下は初めて焦った。 「ーー早智子さん!」 慌てて呼びかけたその声に、けれど早智子は振り返ることはなかった。 (ーー聞こえなかったはずが、ない) そのとき松下はそのことしか考えていなかった。逃げるように出て行った早智子の背中が、かすかに震えていたような気がした。 (呼び止めた、のに) あの声が聞こえなかったはずがなかった。それでも彼女は立ち止まらなかった。 (なぜ?) 追いかけなければ、聞かなければ。閉まったドアの向こうに、早智子の姿がまだあるのかもしれないーー、頭によぎった思いに、瞬間的に足が一歩動いた。早智子の足音はまだ聞こえている。少し早足で、綺麗なかかとの音。聞き違えることはない、あの、靴音。 ドアへと向けて次の一歩が踏み出された瞬間、ばさり、と松下の右足のふくらはぎあたりに何かがぶつかった。 「ーー!」 しゃがみこむほど痛みを感じるほどでもなく、当たり場所も膝裏や足首などではなかった。けれどはっと我に返って松下は振り返る。部屋の奥を。 振り返った足下には、以前、早智子に貸したことのある文庫本が転がっている。おそらくこれをぶつけられたのだろう、と松下はぼんやりと考えながら、その本を拾い上げた。 夏目漱石の、「こころ」。 松下はしばらく、このテクストで論文を書いていた。行き詰まった時に雑談の相手になって欲しい、読んだことがあるか、と尋ねたのだった。 教科書に載っていた部分以外はあらすじでしか知らない、と言った早智子に、読んでくれと頼んで貸したものだ。 表紙に貼られたポストイットには、早智子の字で「留守のようなので置いていきます、お茶請けは冷蔵庫にあります、よかったら食べてください」と書いてあった。 「……まるで、彼女みたいですね」 ぽつりと呟かれた独白めいた言葉に、松下はやっと、部屋の中の人物に向き合う。 彼女ーー中村顕子(あきこ)は、今年の新入生だった。彼女は確かに綺麗な女性で、自分の見せ方をよく知っているのがよくわかる。明るい色のワンピースも、少し派手目の化粧も、確かによく似合っていて少しも無理が感じられない。松下はそのことにはいつも感心する。 けれど、それだけだ。 彼女の女性らしい華やかさは松下にも理解は出来る。だから感心もするし、好ましいとも思う。けれど、それは恋でも愛でもない。 [次へ#] |