大学生と講師のシリーズ 二人分のコーヒー(4年6月) 4 早智子は、静かに静かに、微笑む。研究室のドアの向こうから、松下の足音が聞こえ始めている。 「でも、好きよ」 中村もそれを感じているのか、ささっと空いている手が、髪を、服を、撫でた。 「誰にもとられたくない、譲れない。……あなたにも」 足音はどんどん近付く。 ドアの前で立ち止まることなく、この部屋の本来の主は勢いよくそれを開けた。 「……おつかれさまです、お邪魔しています」 ドアを開けた瞬間に、一瞬固まった松下に、早智子は静かに声をかける。 「……はい、ありがとう」 松下が静かに答える。早智子はくすりと笑った。 「コーヒー、はいっていますから、どうぞ」 「はい」 研究室のドアがばたんと閉まり、松下は部屋の奥へと足を進める。中村が、早智子と二人でいたときよりも明るく、はっきりとした口調で、話し出す。 「こんにちは、祥先生」 「はい」 「コーヒーご馳走になってます」 「え?」 「三浦先輩が、いれてくれました」 松下が早智子を振り返る。早智子はにっこりと笑うと、ひとつ小さく、お辞儀をした。 「わたし、資料集めに来たんですけど、出直します」 「……え、あの、」 「また、ね、中村さん」 松下の戸惑った声を無視して、早智子は中村に声をかけると、中村が小さくお辞儀した。 「……はい、また。三浦先輩」 静かに視線を交わす。 それはなんだか尖っていて、早智子はいてもたってもいられなくなって、きびすを返した。 ドア横の丸椅子から荷物を取り上げると、失礼します、と小さく言い、ドアを開けた。 「早智子さん!」 松下の呼び止める声にも振り返ることもせず、早智子は部屋の外に出る。瞳の奥と、鼻の奥とが、じんわりと痛かった。 (泣くな) 早智子は自分に言い聞かせる。 研究室のドアが閉まり、早智子はしばらくそこでそのドアを見ていた。ただ、見ていた。 中から朧気に聞こえる二人のやりとりを聞く権利も、邪魔をする勇気もない。けれど、帰ってしまう潔さも、ない。 ドアは開かない。 早智子は、こぼれかけた涙を軽く拭うと、小さく小さく、呟く。 「……先生、好きです」 姿の見えない、相手に向かって。 「誰のものにも、ならないで……」 返事がないことはわかっている。追って貰える筈もなかった。早智子は心の中でいち、に、さん、と唱えて勢いづけて、きびすを返す。 かつん、と、黒いサンダルのヒールの音が、誰もいない廊下に響いた。 20090601 中途半端に戦い開始。しばらく戦いが続きます。 [*前へ] |