大学生と講師のシリーズ
二人分のコーヒー(4年6月) 1
いつからか、ときどき、松下が自分を名前で呼んでいることに早智子は気付く。
二人きりの時。
時々油断して、他でもうっかり呼んでしまったり。
そのくすぐったさに心臓は跳ねる。
でも悔しいから、顔には出さない。
そんな、幸福な平穏に、飛び込んできて水面を揺らす、石があることを、二人とも本当は知っている。。
そのせいで、揺らめいて、ざらざらと少しだけ苦い肌触りがするこの平穏を、松下も早智子も必死で守っている。ざらざらに、気付かないふりをして。何もなかった、ふりをして。
研究室のノックは、三回。
合い言葉ですらない、他の人でも出来るその行動を、早智子は頑なに守り続ける。返事があるときとないときとでは、ないことの方が少し多い、くらいの割合。今日は、返事がなかった。早智子は静かにドアを開ける。中にいてもノックに気付かないことのある松下に慣れた人間の仕草だ。
「松下先生?」
中を覗きながら、静かに呼びかける。すっと、開いたドアからコーヒーの香りと、甘い香水の匂いが早智子に届いた。
(……あ、)
どくん、と、心臓が音を立てた。見ないふり、知らないふりをするには確かすぎるその香りに、早智子は少なからず動揺した。今更、気付かないふりをしてドアを閉めることもできない。
早智子はひとつ大きく深呼吸をすると、研究室の中に足を踏み込み、後ろ手にドアを閉めた。
「……先生は?」
なぜいるの、とも、なにをしてるの、とも、早智子は尋ねない。ただ静かに、自分の鞄をドア横の丸椅子の上に置きながら、それだけを訊いた。
白地に、華やかな赤い花の柄の入ったノースリーブのワンピースに、銀色の高いヒールのサンダル。コーヒーを手に、研究室の一番奥、パソコンデスクの前で、窓から外を見ている彼女の背中は振り向くことなく、答えた。
「ここから見えますよ、三浦先輩」
まだ、心臓は高鳴っている。けれどそれを悟られることのないように気を付けながら、早智子はいつも通りにコーヒーを淹れるために、コーヒーポットに水を足し、調理器にかけた。
いつもとは違うコーヒーの匂いは、どうやら彼女が持ち込んだ紙カップのものの匂いらしい。それ以外の豆やポットがいじられている気配はなかった。
「わたし、あなたのことをよく知らない」
ポットの湯が沸くまではしばらく時間がかかる。早智子はスイッチだけを入れて、彼女のもとに歩み寄った。
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