大学生と講師のシリーズ
ざらついた平穏(4年6月) 5
松下はまた早智子の横をすり抜けると、今度は仕事用の机やパソコン、本棚を見回した。尖った雰囲気がそのままで、いつもなら勝手知ったる、とばかりに、本棚をあさったりコーヒーを淹れたりする早智子も、全く動けなかった。
深いため息が松下から漏れる。そこから伝わるいらいらと尖った空気に、早智子は少し、びくりとする。
(わたし、)
(こんなひとを、しらない)
近付けない。
尖った空気が松下の周りにバリアをはっているみたいで、早智子は悲しかった。
(彼女とわたしと)
(隣にいるのがふさわしいのは)
松下が自分を守ったことは嬉しかった。いつも優しくされていることも、よく、わかった。松下を疑うわけじゃない。けれど。
(つよくて、綺麗な)
早智子には出来ない。早智子には冷たい空気の松下に近付くことすら出来ない。あんな風に話すことなんて到底出来ない。だから。
「……あ、の、」
それを認めたくなくて、震える声をどうにか絞り出しながら、早智子は松下に歩み寄ると、左手の指で松下の背中、背広の裾をそっと掴んで引いた。
「あの……、先生」
「え?」
松下がふと振り返った。まだ、つめたい空気を身に纏ったままで。その痛い空気に、早智子は一瞬、びく、と震えてしまう。
「ーー」
それを見逃さなかった松下が、無言のまま、目を見開いた。つめたい空気が消えた、と、早智子が安堵するより前に、松下はふっと両の眉尻を下げながら、かすかに微笑した。
ーーかなしげに、微笑した。
「あ……」
ちがう、と口にしそうになった。ずきりと、心臓にひどく鋭い痛みがはしる。何も、何も、言えず、ただ、呆然と松下を見上げる。
(きずつけた)
(きずつけた)
(ーーどうしよう……)
松下は早智子に向かってもう一度笑いかけると、静かに背中を向ける。かちりとコーヒーポットを温めるスイッチが押された。
「……中村さんのこと、ききたい?」
静かに、松下が問いかける。
振り返らない背中に、早智子はいいえ、と声に出して答える。
「でも何か迷惑をかけるかも、しれないから……、知っておく方がいいとも思います」
「……いいえ、」
早智子がきっぱりと拒否をすると、松下が、かすかに笑った気配がした。早智子はひとつ、深呼吸した。少しだけ、強気の言葉を言うために。
「過保護ですよ、先生。私が、そんなに、弱くみえます?」
コーヒーポットのお湯が、少しずつしゅん、と音をたてはじめる。松下は振り返らない。早智子はつまんでいた背広を離すと、松下の右隣に並んだ。
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