大学生と講師のシリーズ
ざらついた平穏(4年6月) 3
それは他人に強要できるものでないことは早智子も承知している。けれど躊躇いもなくそれが出来、その上松下に帰れと言われても悪びれない彼女を、早智子は、怖い、と、思う。
松下の明るい茶色の背広の裾を、早智子はそっと左手の指でつまんで引いた。肩越しに軽く振り返った松下に、早智子は小さな声で告げる。
「来客なら、帰ります」
目の前にある松下の顔から目が離せずにいる早智子に、考えてもみない方向から声がかけられた。
「帰っちゃうのー?」
松下が、早智子と声の主の間に立ちはだかるようにしていて、早智子には相手の顔を見ることが出来ない。どんな人なのかも、どんな顔をして話しているのかも。
帰ることも、前に進んで相手を見ることも許さない。
「帰るのはあなたですよ、中村さん」
「えー、いやですよー、せっかく来たのに」
「僕はあなたを歓迎していません」
「言わないですよね普通、そういうこと」
「主のいない部屋にも、普通は入らないでしょうけどね」
松下の静けさと、中村と呼ばれた女の明るさとがちぐはぐで噛み合わない。早智子はただ、そこに存在するだけだった。松下の背中の指を離せないままで。 しばらくその場の空気は動かなかった。どちらもが相手の出方を伺いながら、自分の要求をさげようとはしないでいる。早智子はただ、松下の背中で待つことしか出来ずにいた。
「祥先生、それで守ってるつもりなんですか?」
ぴしり、と、彼女の口調が厳しいものに変わる。
「わかんない? 逆効果だって」
早智子の指がびくりと震える。それを背中で感じ取ったのか、松下の右手がそっと後ろ手に早智子に触れた。
松下は静かに静かに、中村さん、とだけ言った。
「中村さん」
それは、本当に静かな一言だった。怒気を孕むでもなく、苛つきを含むでもなく、ただひたすら、つめたいつめたい、静かすぎる一言。
研究室の中から、がたりと不格好な音がして、それからかつん、と綺麗な足音がした。
「……まあ、今日は帰ろうかなー。つまんないけど。これ以上怒らせても、いいことないでしょうしね」
厳しい声音はすっと消え、仕方がないなとでも言いたげな明るい響きで彼女は話す。
かつん、かつん、と足音は次第に近付き、そして、止まる。松下と向かい合うように。
背中に庇われたままの早智子には、松下の僅かに開いた両足の隙間から、彼女の靴と足首が見えるのみだった。
細く締まった足首。高いかかとのピンヒール、銀色のサンダル。そこから見える長い爪は、ひどく攻撃的な深紅色だった。
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