大学生と講師のシリーズ
ざらついた平穏(4年6月) 2
早智子の指摘に松下は苦笑しながら答える。早智子もくすくすと笑いながら後に従う。
「そうだ先生、さっきの授業の……」
階段を降り、松下が研究室の扉を開きかけたとき、早智子は授業の質問を切り出した。
松下は外開きのドアをひいた所でふっと立ち止まり、黙り込んだ。そして、早智子の真ん前に立った。視界全てが松下の背中だけになる。
早智子が、先生? と声をかけようと、その左手を松下へと伸ばしかけた、まさにそのとき、
「あっ、」
と、ひどく明るく、ともすれば素っ頓狂な声がした。
ーー研究室の、中から。
「祥せんせーい!」
その声を聞いた松下の背中が、すっと突然つめたいものになったように早智子は感じた。先刻まであたたかく笑っていたその背中は、つめたく、かたく、危ういものに変わってしまっていた。
その背中に、早智子は声がかけられなかった。あまりにぴんと張り詰めた彼の雰囲気に、早智子は怖じ気づいていた。
「また来たの……何の用?」
松下の、低い小さな呟きには微塵の優しさも含まれてはいなかった。言われているのは早智子ではないのに、胸に鋭いものが突き刺さるような痛みを感じた。
「あっ、ひどい言い方ー、わたしだって学生なのに、そんな邪険にしていいんですかー?」
「あなたに学生らしい用事があるの?」
「先生とお話ししたいっていうのも用事じゃないですかー?」
扉の向こうから流れ出す声は、松下の冷たさにも大して堪えていないようだった。むしろ、そのことが早智子は怖かった。松下の重いため息が背中を通して伝わった。
「……帰りなさい」
「せっかく来たんですから、話しもしないで帰るのは嫌ですよ」
「留守に平気で研究室に入るようなひとと、話す気は、ない」
「だって正攻法じゃ逃げられちゃうじゃないですか」
松下の声が、告げる。容赦なく、つめたいことばを。
けれど彼女はまるで堪えていない。さらりと言葉を返し続ける。
早智子はまだ、胸の鼓動がおさまらなかった。扉の向こうの彼女のことが、怖い。
(わたしとは、ちがう)
例えばーー、いくら好きに入っていい、と言われていても、早智子は松下不在の研究室には立ち入らない。
松下は、早智子がひとりで研究室にいても何も言わないし、気にもしない、と言う。それでも早智子は、松下不在の場合には立ち入らない。
それは早智子の中の「常識の範囲を逸脱している行為」だから、というただそれだけの、けれどだからこそ頑なな、ルールだ。
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