大学生と講師のシリーズ ざらついた平穏(4年6月) 1 三限目の松下の授業のあとの、四限の授業が休講になった早智子は、夜のアルバイトまでの時間の空きを、松下の研究室で過ごそうと目論んでいた。 「質問がある人は?」 松下がその科白を言い終わるのとほとんど同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴る。早智子は挙げかけた手をこそりとおろす。その仕草を見逃さなかった松下が、ほんの少しくちびるを歪めて、意地悪そうに笑ったのを見て、早智子も笑い返した。 「ある人はこのあと研究室で、じゃあ、終わります」 20人程の学生が口々にありがとうございました、と挨拶をし、がたがたと動き出す。早智子は黒板の文字を消す松下を手伝うために、もうひとつの黒板消しを手に取ると、松下のいる逆側から丁寧に消していった。 「汚れますよ」 「構いませんよ、チョークの汚れは洗えば落ちますから」 「そう? ありがとう」 だんだん、二人の距離が縮まっていく。早智子はそのことに、少しだけ、嬉しくなった。たった、それだけのことに。 早智子の左肩と、松下の右腕とが軽くぶつかるようなかたちになり、早智子がふふ、と小さく笑う。二人ともが黒板消しを置き、手をはらうような仕草をすると、松下も今度は小さく笑った。 「三浦さん四限、休講?」 「そうです」 「じゃあコーヒー飲みますか?」 「はい。先生、お茶請けにマドレーヌとか、どうですか」 「いいですね」 松下の研究室までは、階段を2階分降りるだけの距離しかない。どちらもが荷物を持って、早智子は松下の一歩後ろ、斜め右から追いかけるようなかたちで歩く。 「また作ったんですか」 「……またって……」 「ああ、違いますよ、よく時間があるなって感心してるんです」 「つくるのは好きなんですよ」 あなたが美味しそうに食べるから、という言葉を早智子は飲み下す。時間はそんなにあるわけではない。家事にバイト、授業と卒論の用意をかいくぐって、早智子はちまちまと松下に手作り菓子を貢いでいた。もっとも、自分が一緒に食べられる予定がなければ作らないうえ、今日のマドレーヌは、ホットケーキミックスを使った手抜き品なのだけれど。 「ありがとう」 「コーヒーのお礼ですよ。先生の飲んでるコーヒー豆、私じゃ買えないですしね……」 「いや、早智子さんに淹れて貰ってから、自分で淹れても味、違うんですよ。……何か違うんでしょうか」 「先生のは、一度にお湯をさしすぎなんですよ、多分」 「ああ……僕飲みたくて焦ってるからね……」 [次へ#] |