大学生と講師のシリーズ
神がこの地に戻っても 9
早智子さん、と、松下の声が呼んだ。
それは愛おしい記憶の中の彼と同じ、やわらかで甘やかな響き。
反射的に顔を上げていた。逃げ場もないほど近くに松下は既に立っている。ろくな反応もできないくらいに、早智子は狼狽えていた。
まさか、と思う。もう、呼ばれることなどないだろうと、思っていた。
空耳だったろうか。願望だったろうか。そんな風に、考えてみる。
けれど、それは、繰り返される。
「早智子さん、コーヒー、どうぞ」
松下の表情はいつもと変わらない。
鼓動が早くなるのを感じていた。
嬉しくて。
――嬉しくて!
(ばかみたい)
体中の神経を顔に集めたみたいな、必死の努力で、早智子は唇の端を持ち上げる。
「みうら、です」
それだけを、必死で、口にした。
松下の表情は変わらない。少しも、変わらない。
そのことが、早智子にじわじわと沁みこんでゆく。最初よりも、時間を増すごとに痛みは増していく。じわりじわり、痛みが増して、自分の視界が潤みだしたのが、わかった。
「すみません」
松下が、静かに謝罪の言葉を口にする。
それがまた、突き刺さった。
「いいえ、こちらこそ、すみません」
それでも。
声を震わせないように。涙をこぼしてしまわないように。早智子は細心の注意を払って、謝罪への言葉を返す。
これ以上、会話をつづけたくなかったから、何も、言わずにおいた。
ずるい、と詰ることも、嬉しい、と伝えることも、期待してもいいのか、と訊ねることも、何ひとつしないまま、早智子はすっと頭を下げた。謝罪の言葉にかこつけて、視線を反らすためだけに。そして、松下の横をすりぬける。
淹れられたばかりのコーヒーの香りは、ほんのちょっと前と、何も変わらないのに。
どうして、こんな風に。
早智子はコーヒーを手に取る。熱いものはあまり、得意ではない。そのことが今、ひどく、もどかしかった。
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