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大学生と講師のシリーズ


 残り十五分、早智子は帰り道で飲むためのテイクアウトのカフェモカを自分で淹れる。
 本来なら頼んで淹れて貰うべきなのだが、自分の分だけなら、という条件で、機械に触らせて貰っている。
 ひとつひとつの手順をゆっくりとたどり、自分の持ち込みのサーモマグに注ぐと、生クリームを少なめにデコレーションした。サーモマグの蓋を閉め、更衣室手前のキッチンワゴンにそれを置き、自分の使った用具を片付ける。丁寧に、時間をかけて。

 あと三分。
 新しい客が来る気配はない。レジの名前を自分でなく、従業員の名前に登録し直す。
 文庫本等の私物を、やはり更衣室手前のキッチンワゴンに置くと、タイマーセットされている、閉店間際と、オーダーストップの放送が流れ始めた。

「お疲れ様」

 さらりと、片山が言う。片山はこの時間の責任者的存在だ。彼だけがこの店の全ての仕事の権限を持っている。

「はい、お先に失礼させていただきます、お疲れ様でした」

 そっとお辞儀をすると、早智子は彼の横をすり抜け、キッチンワゴンからコーヒー入りのサーモマグと、文庫本を手に取り、更衣室へと続くドアを開けた。
 更衣室へ半分踏み込み、ドアが閉まりかけたその時、ふと、しょう、聞いてるの、と、喚くような声が耳に入った。早智子はとっさに振り返り、ドアを再び押し開けていた。

(しょう、って、)
(先生の、名前)
(先生、の、ことだ)

 片山が既にカウンターから客の席にすすみかけていた。早智子を見咎めると、軽く左手を挙げるだけで制した。
 早智子はそれに食い下がることも出来ず、ただ、片山を見送る。かと言って、更衣室に入ってしまうことも出来ず、そこに立ち尽くした。立ち尽くすことしか、出来なかった。
 片山の声、彼女の声、どちらもが語気を荒らげることもなく、ただ淡々と静かな言葉の応酬が二、三度あっただけで、彼女は風を切るようにまっすぐ、素早い動きで、早智子の前を通り過ぎていった。
 迷いなく、振り返ることもしないまま彼女は店をあとにする。その背中を早智子はやはりただ立ち尽くしたままで、見送った。
 片山がカウンターに戻って来る。未だ去らない早智子に不思議そうな視線を送った後で、それでも、こそりと静かに状況を伝えてはくれた。

「あの男、多分、人の話が聞こえてないよ。わざと無視してるんじゃなければ、だけど、ね」



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あきゅろす。
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