大学生と講師のシリーズ
伝えない声(4年8月) 1
午後二時。
早智子は、夏の研修旅行の説明会に来ていた。
集合時間の五分前にきゃわきゃわと賑やかな教室に入る。美加が机につっ伏して寝ていた。早智子は静かにその隣に座る。持っていた文庫本を開き、静かに読み始めると、まわりの声はすぐに気にならなくなった。
ふと、きゅっと革靴の底が鳴った気がした。聞こえるはずもないほど、部屋は騒がしかったのに。
はっとして顔をあげると、入室してくる松下と目が合った。
(――あっ、)
(わらった……?)
確かに、僅かに唇で笑ったように見えた。一瞬、ほんの一瞬。
そう思った瞬間、久々に見た松下の姿に、ふわりと心が騒ぐのを、早智子は感じた。ぼんやり視界が滲んでしまいそうなほどに、それは急激に、予想以上の勢いをもって、頭まで、爪先まで、指先まで、身体中くまなく駆け巡った。
(会いたかった……、)
早智子は、語り出す顔を見つめながら、溢れ出す感情を堪えることに必死になっていた。
(なに、これ……、)
いつも通りにしようと、そうできると思った、松下が目の前にあらわれたその瞬間まで、そう思っていた。
(どうしよう、)
久々に顔が見れる、声が聞ける、それだけで充分だと、思っていたはずなのに。
(恋しい、)
ざわりざわりと身体中を駆け巡るそれは、早智子の欲望を呼び覚まそうとする。
(いとおしい、)
気付かれたくて、振り返られたくて。
笑って欲しくて、触れて欲しくて。
名前を、呼んで欲しくて。
(先生……、)
美加がむくりと起き上がるのが視界の片隅にうつった。
何事もないかのように、松下がさらさらと話し出す。プリントを配るために横を通っても、ふと視線が交わされても、少しも松下は揺れない。揺らがなかった。
わかっている、早智子にもそうしなければならないのは充分よくわかっていた。それでも。
早智子は俯き、ペンを強く握る。
(先生、)
それでも、
恋しくて、愛おしくて、
(まるで夢だったみたいで、)
けれど、
築いた関係が夢だったみたいに松下が静かすぎて、
(さみしい)
不意に淋しくなる。ひどく悲しくなった。
(会いたかった、)
(会いたかったのに)
松下に気付かれないように、俯いたまま唇を僅かに噛んだ。泣き出してしまわないように。
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