大学生と講師のシリーズ
自惚れの法則(4年7月) 2
言葉もなく、ただ歩く。
夏の風は湿気を含んで息苦しい。それでも、この背中を追うことは苦痛ではなかった。
時折心配そうに、ともすれば不安げに見えるほど頻繁に、松下からの肩越しの視線が向けられた。早智子はその度、微笑みを返す。不思議なほど落ち着いた気持ちでいた。
(――昼間の、が、)
(誰であっても、もう、)
気にならなかったと言えば嘘になる。
けれど、この、子供みたいにまっすぐな好意を疑う気には最早なれない。
冷たいカフェモカの甘さを口の中で味わいながら、松下のゆっくりとした歩調に合わせて歩く。
(もう少し早足でも大丈夫ですよ)
喉元まで出かかっているその科白を、けれど早智子は口にしない。松下のその優しさが、そして、一緒にいる時間が延びることが、心地よかったから。
また、松下がこちらに視線を向ける。早智子は苦笑し、何歩か早歩きして、松下の横に並んだ。
「早智子さん、今日はすみませんでした、追い返すような真似をして」
松下が唐突に語り出す。早智子はいいえ、と、答えた。
「でも、」
「気にしてないですよ?」
「あのとき、中にいたのは、……、」
言いかけた松下がふっと声を途切れさせる。早智子は少しくちびるで笑う。
「……、先生はそれ、話したいですか?」
そう問いかけると、松下は小さく目を見開く。わかりにくい変化だったが、早智子の目には確実なものに見えた。
「話したいけど、話したら私が傷つくと思ってやめているなら、私は聞きたい。話したくないけど、話さないと私が気にすると思っているなら、それは杞憂です。話さなくていいですよ」
早智子はきっぱりとそう告げる。松下はしばらく黙ったあとで、くくく、と笑い出した。左手で口のあたりに拳をつくりながら。
「……、かっこいいね、きみ」
そんな風に苦しい息の中から松下が告げる。早智子は笑う。
「自惚れてるからですよ」
「え?」
「誰のせいだと、思ってるんです?」
まだ少し笑っている松下の右手に、すっと左手を伸ばした。
「……うん、そうか、……僕も自惚れておこう」
そんな風に松下が答え、早智子の手をやわらかく握った。
また、言葉もなく、歩く。
冷たい指先と、甘いカフェモカの味と、松下の笑い声と。
息苦しいような夏の空気が少しだけ、やわらかく感じられる気がした。
松下は結局、何も話さなかった。
早智子も、尋ねることはしなかった。
091114
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