大学生と講師のシリーズ
1
「まつしたせんせーい…」
ノックをしても返事のない松下の研究室のドアを、声をかけつつ静かに静かに早智子(さちこ)は押し開いた。
早智子は、今までの経験上、ノックの返事がないこと、イコール、松下の不在、ではないことも多いことを知っている。
松下はこの大学の講師で、早智子はもうすぐ四年になる予定の学生だった。進級のかかった試験も一月末に終わって、結果が最速で出るのが今日ーー二月十四日、だった。
生憎の雨模様、しかも土曜日でバレンタインデー。わざわざこんな日に試験結果を見に来る学生は少ない。ここにいる人間の内訳は、試験の結果が進級を左右するかもしれない者45%、レポートが本来の締切に間に合わず、尚且つ今日までしかない再提出期間もギリギリ今まで引き伸ばしていた者40%、ただ一刻も早く知りたいせっかち、もしくは真面目すぎる者10%、その他5%、というところかもしれない。
早智子はその他5%のひとりである。早智子は試験結果を見なくても、自分がほとんどの教科で多分優を取れる成績を残していることを確信していた。レポートもすべて提出済みだし、確信している結果を、早く受け取りたいと思うほどせっかちでも真面目でもない。
では何故ここにいるのか、と言えばーー、
そう、バレンタインデーだったから、だ。
松下は部屋にいた。そろりと開けたドアから、カシャカシャパチパチ、キーボードの音が響く。随分な勢いで叩かれているキーボードの文字は、もう既に磨耗して大分消えていることも、早智子は知っていた。
(……駄目だ、気付かないや)
ふぅ、とひとつ小さくため息をつくと、早智子はするりとドアの内側に入り、また静かにそれを閉めた。
松下には講師としてとても優秀なのだけれど、少し困ったところのある人で、集中すると周りの音も何もかも見えなくなってしまうのだった。その集中力がなければ大学の講師になどなれないのかもしれないが、ノックしても気付かないので、彼を訪ねてくる学生やら同僚やらは、多くは不在だと諦め、去ってしまう。本人に無視するつもりはなくても、結果無視して追い出したかたちになる。授業や試験、レポートが厳しいこともあって、学生にはすこぶる評判が悪かった。
ただし、一部の学生からは圧倒的に支持を得ている。試験、レポートの厳しさはあるけれど、彼は本当に面白い授業をするのだった。
早智子はその「一部の学生」のひとりだった。
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