大学生と講師のシリーズ
未発展な未来(4年7月) 5
松下の冷たい手。
冷たかったはずなのに、それがなくなったら、やけに手がすうすうとした感触がして、早智子はひどく心細いような、淋しいような気持ちになる。
ぱちぱちと松下がキーボードを叩く音が響き出す。流暢に叩かれるそれのわずかな隙間に、早智子は呟くように言った。
「……先生なら、狡くても、いいですよ」
早智子がその横顔に小さく告げる。
仕事を始めた松下が反応を返すことは稀だ。それを知っているから、落胆はしない。仕方ないなとため息をつきながら、それでも、早智子は続ける。
「狡くても、好きですよ」
瞬間、ひどく機敏な動作で松下が早智子を振り返る。
(えっ、きこえた?)
早智子は松下の反応があったこと、そしてそのあまりの機敏さに、一瞬呆気にとられ、何の反応もできなかった。
「なにを、いきなり……」
松下は松下で、何だか呆然とした声を出す。呆れたような顔をして呟くその言葉が何だかおかしくて、早智子はふふと笑う。
「ああ本当に、君は、」
「ごめんなさい」
くすくすと笑い続ける合間にはさんだ謝罪の言葉に信憑性はうすく、松下は呆れたように肩を竦め、ひとつためいきをつく。
なんとか笑いをおさめた早智子がもう一度、すみませんと謝る。その彼女の頬に触れた髪を、松下のすいと伸びた指が、一房つまんだ。
「今日はおろしてるんですね」
「ああ、はい、バイトが、ないから」
「そうですか」
松下はその髪を離さない。つまんでいる指は、ただそこに触れている。悪ふざけをするでもなく、それ以上を求めて動くでもなく。
ただ、その奥にある瞳は、まっすぐに早智子を射た。
「……先生?」
少しずつ動悸がはやくなり始めた早智子が声をかけると、松下はさっと手を離した。
「すみません」
「え、いえ……」
早智子は何を謝られているのかよくわからないまま答えていた。
困ったように笑ったあとで、松下は頬杖をついて早智子を見た。そしてそっと口を開く。
「きっと隠しきれなくなるのは僕の方だ……」
ひとりごとみたいに、けれど確かに、早智子を見つめて呟かれた、松下の甘苦い言葉に、早智子はまた、笑った。
091015
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