大学生と講師のシリーズ
底に残ったコーヒーの味(4年7月) 2
松下がそう言うと、早智子は恥ずかしげに瞳を伏せ、つぶやくように言った。
「……私の家、ここからは、歩いてすぐなんです。だから……、」
「……? はい」
おそらく、松下の口に出さなかった疑問を、間違うことなく受け止めた早智子は、目を細め、柔らかく微笑んだ。恥ずかしげに、けれど鮮やかに。
一瞬松下が息をのむほど、それは可愛らしい笑みだった。
「だからね、」
少しだけ、幼い話し方で早智子が告げる。
松下の胸に、じわりと熱が広がる。
「もうちょっとだけ、一緒にいたいなあ、って」
早智子が、淡く紅潮した頬で、
「帰るの大変だって、わかってるんですけど……、あの、だから、コーヒー一本分だけの、わがまま、です」
あんまり嬉しそうに、笑うから。
(……よかった、)
(これで、よかったんだ、)
松下はやっと安堵して、微笑む。
一歩踏み出したことにも、彼女を好きになったことにも、今になってやっと、安堵したのだった。
そして、早智子がまた、可愛らしく、笑う。
松下の胸が、じり、と音を立てて焦げた気がした。
(愛しい、な)
松下は一口だけ、コーヒーを飲む。互いに言葉が途切れたそのとき、ギアに触れていた松下の左手に、早智子がそっと、触れた。
やわく握り返すと、早智子がふふと小さく笑う。
ただ互いに、互いの手の感触を、温度を、無欲に与え合いながら、けれど貪欲に奪い合いながら、コーヒーに口を付ける。
静かな、静かな、夜だった。
――本当は語るべきことはたくさんあった。
普通に付き合うよりも面倒ないくつかのことを、ゆっくり話して決めるべきだとはわかっていた。
続けていくなら直視しなければならない、面倒な制約を。
けれど今日くらいは――、ただ互いに好きだと言い合ったばかりの今日くらいは、ただの二人でいてもいいだろうか。
早智子の嬉しそうな、柔らかな笑みを見ていると、そう思えてならなかった。
明日からはまた、日常が始まる。
好きだと言い合ったところで、何も変えられないままの日々は続く。
まわりも、自分も、うまく騙してごまかして、何もない日常を、過ごしていくのだから。
(今だけは、)
どちらもが別れがたく離れがたく、わずかなコーヒーを缶の底に残したまま、コーヒー一杯分の甘い時間は長く長く、続いた。
20090921
再開しました。
[*前へ]
無料HPエムペ!