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大学生と講師のシリーズ
甘く、香る。 1

 何度ノックをしても返事がないことに業を煮やして、早智子は松下の研究室のドアを開けた。開けた瞬間から、パソコンのキーボードを叩く音がすごい勢いで聞こえてきた。
 明日〆切のレポート、必ず手渡しのことーー。そう条件をつけたのは松下の方だ。先刻研究室に入って行ったのは確かなのだから、返事がなくてはおかしい。こういうことに対する忍耐力をつけろ、という指導なのだとしたら悪趣味過ぎる演出だ。一言文句を言いたかった。

「失礼します」

 早智子ははっきりとそれを発音して、松下を真っ直ぐに見据えた。松下はまだパソコンのキーボードを叩くことに必死で、こちらを見もしなかった。

「松下先生?」

 早智子はもう一度、はっきりとその名前を呼んだ。松下はやはり、画面から目を離さない。

(……これは、ちょっと、どうなのよ?)

 早智子はもともとそう気の長い方ではない。鞄からレポートを取り出すと、つかつかと松下に歩み寄り、パソコンの画面を覆うようにしてレポートを突き出した。
 不意に止まったキーボード上の松下の両の指を早智子は至極冷めた気持ちで見ていた。
 松下はまだ次の言葉を紡がない。早智子は静かにそのレポートをもう一度自分の胸元に引き寄せ、体裁を確認してから、今度は静かに、差し出した。

「三浦早智子です。レポート、提出に来たんですが」

 松下が、ぎこちなく早智子の方を見た。その顔を直視して、早智子は胸が騒いだ。
 ただただ、呆けたような顔。
 無防備に驚き、無防備に早智子を見上げているその顔は、まるで寝起きの子供のようだなぁと早智子は思った。

(きれいな、きれいな)
(すきとおった、目だ)
(子供みたいに)
(無防備)

 早智子はしばらく、松下の瞳をじっと見つめていた。松下も視線をはずすことはしなかった。二人でしばらく、見つめ合っていた。静かに。静かに。
 すると、松下がぼんやりと声を発した。

「……あ、」
「あ?」

 聞き返すのと同時に、松下は一度、かたくかたく瞼を閉じ、そしてまた開いた。
 じっと松下の瞳を凝視していた早智子には、眼鏡の奥で無防備なひかりを放っていた瞳が、すいっと黒いいつものひかりを取り戻すのが、よくわかった。
 まっすぐな、瞳に、なる。
 痛いほどつよい、いつもの視線に。

(怖いほど、まっすぐな)
(いつもの、松下先生だ)

 早智子は、ぼんやりとまだ松下の瞳をのぞきこんでいる。バツが悪そうに、松下が一度俯くまでずっと、ずっと。
 松下が俯くと、早智子は急に我に返った。何をしていたのか、わからなくなりそうだった。

「……、すみま、せん」

 意味もなく、謝罪の言葉が口から零れ落ちる。けれどそのあとが続かなかった。



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