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5

「本当に大丈夫ですか?」

彼女は心底心配そうな顔をした。それから、庭先に停まる一台の車に視線を向ける。

「多分、大丈夫です。何か分からないことがあったらすぐに連絡します」

その心配を無くそうと、努めて笑顔を見せた。その笑顔に小さくため息を付くと、前園は長太郎の手を握る。二人の間の丁度胸元辺りまで上げられたその手は、力強く握られ彼女は何かを祈るように目を閉じた。

「いつでもどうぞ。ただ、あまり無理をなさらないように」
「はい。ありがとうございます」

前園はそっと手を離し、目尻に優しくシワを作った。

「では、私はこれで失礼致します。本邸にいますのでいつでもお呼びください」
「はい。あの、例の件は…」
「完了しています。言われた通りになっていますよ」
「ありがとうございます」

感謝の意を込めて深く頭を下げた。それに応えるように、前園も頭を下げる。

「では、失礼します」

遠ざかる背中にもう一度頭を下げた。姿が見えなくなるまで見送って、長太郎は小さく息を吐いた。これからの生活を思うと、不安がないわけではない。いや、むしろ一杯だ。料理だってろくにしたことないし、洗濯だって。つまりは家事全般。

「なんとかなるよね…」

そう零した言葉は自分への激励だった。勿論、そんな言葉で問題を打破できる訳もないのだが。
長太郎は庭先に停めてある車に目を向けた。それから先の事を想像してみて、だけどそれが出来ず、仕方なく今日の自分の行動を振り返ってみる。

「新聞を見たのが今日だなんて考えられない…」

自分でも驚いてしまう今日の行動力。新聞の中に居た彼が自分の中の何かを突き動かしたんだ。そして、そんな彼がすぐそこの車の中にいる。
長太郎は大きく息を吸い込んで、それをゆっくりと吐き出した。それから、車に近付き中を覗き込む。



「…寝てる?」

彼は後部座席の隅で体を小さく丸めていた。ゆっくりと、そして小さく上下する胸。なぜだか、あぁ、彼は生きてるんだ、なんて当然の事を思った。
起こさないように静かにドアを開け、彼の肩に触れる。ピクッと微かに動いたが起きる気配はない。なんて無防備な寝顔。
長太郎はそのまま膝の下と脇の下に手を滑り込ませ、抱き上げた。九歳と云えば、まだ身体は出来上がっていないにしてもそこそこの重さはある。おまけに寝ている人間ほど運びにくいものはない。徐々に下がっていく腕に日頃の運動不足を笑いながら、小走りで家の中へと入った。



家の中は電話で頼んだ通りになっていた。
白いグランドピアノはリビングから無駄に広い客間に移されていた。客間と言っても、ここに人を通したのはいつが最後だったか。全部がオフホワイトに統一された部屋に真っ白なグランドピアノがおかれ、それだけで客間という居心地の悪さが払拭された気がした。今日からここがプライベートルームになる。

グランドピアノがなくなってどこかポッカリとしたリビングのソファーに彼をそっと寝かせた。ソファーがゆっくりと沈んで、受け入れるように包み込む。
長太郎は、起こさないようにそっと立ち上がった。それから庭に続く窓を半分だけ開ける。冬の乾いた冷たい空気が、待ってましたと言わんばかりに滑り込んでは、うっすらと黄緑着いたカーテンをユラユラと揺らす。
長太郎は大きく息を吸い込んで、窓を閉めた。冷たい空気が喉を通り、緊張で乾いている喉をスッと潤した。間合わなかった空気達が窓にぶつかり、カタカタと音を鳴らす。



今日から二人か…





まだ眠る彼を見て、無意識に指が動いた。頭の中をメロディーが駆け抜けるが、いつもの様に急いで楽譜に移そうとは思わない。

きっと、このメロディーは変わっていくから。


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