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虹も塩辛い
ゆっくりと職員室の扉を開けると、ほんのりとコーヒーの香りが辺りを漂っていた。
なみこの瞳に映るのは、シワひとつないシャツ。広い肩幅に青みがかった髪の色。いつも着ているグレーのスーツはどこかにかけているのだろうか、珍しく無防備だ。

「・・・先生。」

戸惑いがちに呟いた声はしっかり氷室の耳に届き、その声に誘われるように体がこちらへ向いた。

「小波。」

外からは夕日が室内を照らしており、氷室の白い顔も、今はオレンジで色づけされているようにも見えた。なみこは腕に抱いてあるクラスの人数分のプリントをもう一度抱えなおすと、氷室の目の前まで移動しそれを預けた。氷室の気まぐれすぎる小テストは、クラスの誰もが悪戦苦闘しながら解いたものだ。その重みは、なみこの憂鬱さをも抱えられている。それを氷室は容易く受け取ると、自分のデスクの上にあるコーヒーをどけ、そこに置く。

「随分遅かったな。」
「みんな帰ったんですけど、葉月君が寝てしまって。」
「葉月が起きるのを待っていたというわけか。君らしいな。」

なみこは苦笑いという肯定を返すと、氷室はあからさまに溜息をつきながら持っていたペンで頭を掻いた。珍しい行為をしているなと見入りながら、一度窓の外へ目を移した。夕日は流れに沿うように速度を上げて沈んでいく。グラウンドを見れば葉月がフラフラとまるで誘われるように校門までの道のりを歩いていた。彼は自分のせいでなみこが帰れなかったのに申し訳なく思ったのか家まで送るといってくれたのだが、大丈夫なのだと断った。そんな風にぼんやりと外を見ていたなみこを不振に思ったのか、怪訝な顔をしながらどうした、と声を掛けた。

「あ、いえ、何でも。そういえば、他の先生は居ないんですか?」
残っている生徒が居ないか見回っている。私は君を待っていた。」

勿論、なみこをというよりプリントを待っていた、が正しいのだが、そんな言われ方をするとどうしていいのか分からなくなってしまう。
あの体育祭から随分月日は流れたというのに、変わってしまった感情に慣れることは一切なく。

(先生の目さえまともに見ることが出来ないなんて。)

シェイクスピアの名言で、恋は盲目、という言葉を聞いたことがある。なみこはそれこそ理解出来ない言葉だったのだが、今なら力強く頷いて確かにそうですねと言える自信があるほどに、毒されていた。

「何をしていたんですか?」
「他のクラスに出した小テストの採点をしていた。」

覗いてみると、確かに大量の答案用紙と、既に冷め切っているであろうコーヒーがあった。

「まだ採点、続けるんですか?」
「いや、もう遅い。残りの分は自宅で採点する。」
「そうですか。」

氷室が紙を束ねる手が無意識に視界に入り、なみこは少しドキリとした。先ほども言ったように、あの日のことがいきなりフラッシュバックするのだ。一度頭に思い浮かんだらそれは中々はなれず、それを消すように大げさに頭を振るうと、氷室が怪訝そうになみこを見る。

「気分でも悪いのか?」
「あっ…いえ、そうじゃないんですけど、も。…いや、そうかもしれません…。」

この静かな雰囲気がどうにも変な考えまで行き着いてしまうのだと結論づけ、慌てて帰ることを告げ扉の前まで行くと、氷室に呼び止められた。振り向けば、いつのまにかいつものグレーのスーツを着用しており、デスクの上も先ほどまであったものが全て片付けられておりまっさらな状態。そんな早業を披露する氷室に驚かされながら、呼び止めた理由を目で急かせた。

「君の家は私の帰路にある。」
「…はあ。」
「ついてきなさい。家まで送ろう。」
「あ、はい。……えぇっ!?そ、それはその、つまり先生の車に、という事でしょうか…?」
「気分が悪いのだろう。」

何か問題が?という顔をする氷室と、見るからに混乱しきった様子のなみこ。とことんかみ合っていないが、氷室はそのまま出て行こうとしたので小波も慌てて後を追う。鞄がまだ教室にある事を思い出し氷室に言えば、車の前で待っている、場所はと説明を始めようとした。その声に重ねて、場所なら分かりますと告げる。
職員用の駐車場というものがあるが、氷室の車だけはすぐに分かる。あんな目立つスポーツカーを氷室以外の教員が乗るはずも無い。

教室まで足早になりながら、自分の顔がニヤつくの分かる。手で押さえても治まらないほどニヤついてしまっている。これは当分直りそうにもなかったので、車につくまでにおさまればいいと諦めた。氷室が生徒をあの車に乗せるのは初めてではないだろうか、などと都合のいいことばかり考えてしまい、教室の廊下に放り出されたままの自分の鞄を両手で抱くようにし、軽い足取りで下駄箱まで進んだ。



「氷室先生!」
「…靴のかかとを踏むんじゃない。」
「はーい。」
「返事は短く。」
「…はい。」
「よろしい、乗りなさい。」

どの車よりピカピカに輝く車。手垢なんて一切ついていない、新車なんじゃないかと思ってしまうほどの綺麗に磨かれた車だった。
(…確か、マサラティ…とかそんな名前の車じゃなかったっけな)
曖昧に車種を頭の中で唱えながら助手席に座り込んだ。なみこの父の、7年愛用しているセダンはこんなにシートにすっぽり包まれない、などと比較しながらキョロキョロ見回していると、当たり前だが運転席に氷室が座る。
今まで高揚感のようなものばかりしか出ていなかったため、思い出したように緊張し始めるなみこは、自分の手元しか見れなくなる。

「シートベルトを締めなさい。」
「あ、はい!」ゆっくりと発進するなか、校庭の景色を眺めた。下校している生徒は一人も居ない。タイヤが砂利道を進む音だけが静かに聞こえる。音楽をつけず、ラジオも付けない。砂利道を抜けると車内にはエンジン音だけが残った。
普段先生と何を話していただろうか。そんな疑問が浮上しては答えが出ない。
テストの話か。
授業の話か。
はたまた、奈津美の話か。
どれも今の状況にはそぐわず、それから、普段こんな話しかしていなかったことに情けなくなった。
氷室とどうにかなりたいわけではない。しかし、自分の知らない彼を知りたいとも思った。教師ではあるが、好きな人でもあるのだ。友人が、片思いの相手の話をしているとき自分はいつも聞き役しかできなくて。少しだけうらやましくもあり、いつか自分も好きな人が出来たら聞いてもらおう、などと思っていた。

「あの。」
「何だ。」

せっかくなので、取り留めのない話から入る事にする。

「氷室先生って、どんな食べ物が好きなんですか?」
「好き嫌いという意味なら、特にない。」
「じゃあ、普段はどんな食事をしてるんですか?」
「ライ麦パン4枚、チーズ100g、グレープフルーツ2分の1個、セロリ6本、牛乳500cc…。そしてビタミン剤を少々、以上だ。」

聞いていて、何故かなみこの眉間には深い皺が出来ていた。仕方のない事だ、なみこにとっては今の答えはただの珍回答にしかなっていのだから。

「“以上だ”って…それ、なにかのレシピとか?」
「いや、私が一日に摂取する食料だ。」
「…まさか、毎日ですか?それ。」
「毎日だ。」
「あの…飽きませんか?」
「全く飽きない。」

氷室には申し訳ないが、なみこは若干引いていた。それはそうだろう、まるでアンドロイドのような食生活。いや、氷室の事だ、健康面に問題はなさそうなのだが…過剰に言うならば、普通の人とはだいぶ違うような。食べる事が好きで、食事を楽しむなみことしては氷室の回答に上手く返事を返せなかった。

「先生は私が今度ラーメン食べに行きませんかって誘っても来ませんか?」
「…時と場合による。」

(…よく分からない。)

良い時と悪い時の差が一体なんなのか分からない。これ以上突っ込むのは危険だと察知したなみこは、別の話題を振る事にした。

「じゃあ、氷室先生の趣味ってなんなんですか?」
「勉強だ。」
「…………先生。」
「……わかった。私の趣味は…趣味は、そうだな…時々ピアノを弾く。」

以前放課後に音楽室で、いつもとは少し違った表情でピアノを引く氷室を思い出し、なみこは少し頬を染める。そんななみこには気づかないまま、氷室の話はなおも続く。

「両親ともピアニストだった。母はクラシック、父はジャズ…だから私も自然と覚えた。」
「そうなんですか…。氷室先生は、どっちを弾くんですか?」
「…小波。君はどっちだと思う?」
「えーと…やっぱりクラシック、かな?」
「正解だ。」

ニヤリと笑う氷室の横顔を、なんとなく、ぼんやりと眺めた。今の時間、少しだけ教師と生徒としての会話ではなく、やっとプライベートな話をする事が出来た。それだけでもうおなかいっぱいになったように、緊張で伸ばしていた背筋を緩め、体全体をシートに預けた。

(先生、素敵すぎます…。)

鞄を抱える腕を強め、一息つくように瞼を落とした。



____________

ゆらゆらと心地の良い揺れを感じ、意識が戻った。ぼやけていた視界がクリアになるに連れて、目の前にある氷室の顔を確認すると、シートに預けていた体が驚きすぎて跳ね上がってしまった。

「あああの、私、寝て…?」
「君は普段十分に睡眠をとっているのか?何度呼びかけても起きないとは。」
「ごめんなさい!」
「まぁ、いい。それより、到着した。」

窓の外を見ると、見慣れた家が目に映った。慌てるようにドアを開けでようとするが、グッと体が固定されて動く事が出来ない。シートベルトの存在をすっかり忘れていたのだから。とんだ赤っ恥行為に謝る事しか出来ず慌てていると、ふいにシートベルトが緩んだ。
慌てるなみこを見兼ねた氷室が、そそっかしいな君は、と困ったように言いながら外したのだ。
その一言にハッとし、熱を持っていた頭の中が急に冷めた。


きちんとお礼を言い、車が見えなくなるまで見送った。そのまま無気力に玄関の鍵を開けて中に入ると、今日の夕飯だろうか、とてもいい香りがしてきたが、それに反応する事もなくただいま、と小さく呟き自室へ駆け込んだ。
思い切りドアを閉めベッドに突っ伏する。母親が呼んでいる声も無視し、持ったままの鞄を放り投げた。

(…何か、疲れた。)

色々な事がありすぎて。時間的にはほんの数十分、寝てしまった事を抜かせば、ほんの数分だ。あの短時間でやけに体力を消費した気がする。
好きな人と会話することがこうも大変な事だったのかと理解した。
先が思いやられる、となみこはまた、眉間に深いシワを作ったのだった。


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