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溺れる蛍火





随分面倒なことに巻き込まれてしまったと、なみこは頭を抱えた。


今年の体育祭の参加種目が決まった。借り物競争に二人三脚、それに留まらず100メートル走にまで。それから、クラス全員さんかのもの。これら全てを任されてしまったのだ。いくら運動神経が良くてもそんなにそつなくこなせるスーパーマンではないのに。しかし、クラス全員のなみこコールに押され、これらの競技に出ざるを得ない空気になってしまったのだ、だれがその状況で断れようか。
生憎自由時間に決めた配役のため、普通なら反対しそうな氷室も不在。なみこは体育祭の期待の星となった。
ただ、一つ問題もあった。二人三脚である。これは一人だけが出来ればいい話ではなく、お互いの息が合わなければ成立しない競技だ。しかも相手は、こういっては物凄く失礼だが、余ってしまった葉月だった。いや、余ったのは彼が最後までやりたいものを選ばなかったからであり、もし葉月が率先して二人三脚を選んでいたら、名乗りでる人間は星の数程いるだろうから、なみこが抜擢されるということはなかったはずだ。
葉月はスポーツ嫌いだが、運動神経が悪いというわけではない、むしろいいほうだ。だとすると足を引っ張るのは自分だ。身長の差もあり、自分の走りが遅ければ遅いほど迷惑がかかってしまう。

「ごめんね葉月君…私なんかがパートナーで…。」
「俺はお前とが一番やりやすい。」

放課後、帰り際にそう話せば、随分お世辞的な対応だと思った。そういわれると、なんだか逆に落ち込んでしまう。昔から誰かと足並みをそろえるのが苦手だったので、不安は増幅するばかりだった。葉月とはそのまま別れ、自分は体育祭の振り分けが書いてある紙を提出しに氷室の居る職員室へと急いだ。



「…君は…これで納得をしているのか?」
「はあ…。」

渡したものを見るなり、氷室は眉間にシワを寄せながらなみこにそう問う。そりゃあ、出来るなら減らしたいが、そうはいかない状況になったから渋々提出しにきたのだ。

「随分曖昧な答えだな。」
「決ったことにいちいち文句付けていたら、それはただのわがままです。」
「それはそうだが…。体力は持つのか?確かに君の運動神経は申し分ない。しかし…。」
「氷室先生、自分でも言ったじゃないですか。体育祭の種目に関して私は君たちに口出しはしない、自由に決めなさいって。」
「…分かった。受理しよう。」


なみこが去った後、氷室は着ていたスーツの上着を脱ぎ、少し涼んだ。もうすぐ6月になろうとしているが、随分暖かい気候になったものだと、ほんの少しだけネクタイも緩める。そして先ほど生徒から渡されたわら半紙を机に置き、眺める。
運動好きな男子が多種目でるのは何度かあったが、女子がこうして多種目出るというのは初めて見る。その場に居たら口出ししていただろうが、それは生徒との約束を破ることになるのだ。その紙に書かれている内容は、氷室に不安を抱かせた。あのテスト勉強の時のように周りが見えなくなり、無茶をしなければいいが、と。


一息つき、何の気なしに外を眺める。部活練習している野球部の走りこみを見て分かるように、今日はやはり暑いのか水分補給をする者が非常に多い。その中に一人、体操着で元気良く野球部の中に入っていく少女が居た。野球部のマネージャーだろうか、などとコーヒーを片手に机に戻ろうとしたが、どうにも気になりもう一度だけ目を向ける。
(なっ…。)
頑張っていこう!などと声を上げた少女を確認した氷室は、動きが一瞬フリーズしてしまった。それはマネージャーではなく、さきほどまで自分の目の前に居た小波なみこではないか。あろうことか野球部に混じってランニングをし始める。氷室は、随分早くに自分の悪い予感が当たってしまったと溜息を零した。
(どうして君は考えるより先に行動する…。)
結局その日なみこは氷室から注意を受け、自分に合った体力づくりの仕方を延々と教わった。
休みの日には弟の尽と公園をランニングしたり、放課後はたまに葉月に付き合ってもらいつつ走る。勿論氷室の教えにあった適度にセーブしながら、を頭に入れ、徐々に体力を付けていく。そうしてがんばるなみこに周りも触発され、走り仲間がどんどん増えていく。まるで青春ドラマのようだった。


_________


「氷室学級が目指すものは一位だ。君たちの成果を見せてくれ。期待している。」

こうして、体育祭が幕を開けた。目指すは一位。初めは一位なんて無理だと嘆いていた者も、今では溢れんばかりの闘志が一位だけを見据えていた。

「とりあえず私の初競技は二人三脚か…。まぁ、私と葉月君の前には敵無しだよね!」
「そうだな。」

あれほど体育祭に興味がなかった葉月でさえ、このうえなく頼れる返答が返ってきた。程よく足に結ばれた二人の紐に、葉月のファンからの羨ましい、ずるいなどという野次は飛ばすが、なみこの耳には既に届いておらず、まるで闘牛場の牛のように気持ちを高ぶらせ足慣らしと走り始める。そして高鳴る気持ちが治まらないまま、本番へと。

「私たちの成果を見せようではないですか葉月君!」
「ああ。そうだな。」

見えない炎が、ほかの生徒には見えた。
結局、余裕で二人三脚の一位をとることが出来、賞賛を得ながら仲間の下へ戻ると、いつもより嬉しそうな表情の氷室と目が合う。そして一言、良くやったと二人を褒めた。息つく暇なく、借り物競争の為に準備を開始しようかとすると、友人の藤井奈津実がやけに楽しそうにこちらに走ってくる様子が見えた。彼女の状態を見るに、まだ競技にはでていないようで随分涼しい顔をしている。

「なみこ、おめでと〜!」
「ありがとうなっちん!」
「もう出番ないっしょ?一緒にそのへんプラプラしない?」
「私まだ二つでるよ。」
「はぁ!?なにそれ。」

それは確かなリアクションだ。藤井自身、参加するのは全員が参加する大縄跳びだけで、しかもその大縄も出たくないと思っている次第だ。目の前のなみこのみなぎる闘志とは裏腹に、随分と気の抜けた言葉を返す。藤井に自分の参加種目を伝えると、よくやるよ、という表情がはっきりと見えた。

「でも、三種目かぁ。じゃあ、アンタの手で優勝を飾るようなもんじゃない?」
「…そんなに期待されても…。」
「ふ〜ん。じゃあ私、応援してるから。誰よりも大きい声援してあげる!」
「う、うれしいけど…ははは…ありがとうなっちん。」

自分の手で優勝だなんて滅相もない。パタパタと去っていく友人を見送りながら、一人苦笑いを零した。そして次の参加種目、借り物競争の為にスタートに付いた。もう一度靴紐をチェックしようとしたとき、隣に並んでいた人の視線に気づき顔をあげると、何とも嫌そうな顔をした女生徒と目が合う。話と事もない人物に一応会釈し、何だろうと思いながらももう一度靴紐へと目線をうつしたが、そんななみこに、その女生徒は声を掛けた。

「あんたってさ、ウザイよね。自分が凄いとでも思ってんの?」

(え?)今、自分に言ったのだろうか。いきなりの台詞に手が止まり、その女生徒のほうを見やったが、既にそらされていた。今、確実に自分への攻撃の言葉だった。そうか、自分はそんなふうに思われていたのかと冷静に思いながらも、何も今そんな事言わなくてもと、少しだけ気持ちが沈んだ。それと同時に、この人だけには負けたくないと拳を強く握り締める。
間も無く、位置に付いてと声がかかり、借り物競争は一斉にスタートされた。

スタートダッシュは順調に、まずはなみこが先頭を切った。そのすぐ後ろに二人、やや出遅れた生徒が一人。
何処からか大きな声でなみこ頑張れー!と聞こえてきた。奈津実だ。先ほどの約束が守られ、大きな声援が送られ、それから、クラスの子達の声援も耳に入ってきた。なみこはそれに答えるようにスピードを上げ、地面に置かれた紙まで来ると拾い上げ、書いてある文字を目で追った。

タクト。
なみこが借りてくるものは、指揮棒のようだ。そう、指揮棒といえば一人しか思い当たる人物がいない。考えている間に他の走者も追いつき紙を拾い上げている。

「氷室先生!」

自分のクラスの場所まで走り、タクトを所持している人物、吹奏楽顧問である氷室の名前を叫んだ。しかし考えてみれば、タクトを今現在所持していると言う事など、あるだろうか。しかしタクトを持っている人物など他にはいないので、よぎった不安を消すかのようにもう一度目的の人物の名を叫んだ。

「氷室先生!」
「私はここだ小波!何を貸せばいい!」

前に集まった生徒を掻き分け、その人物は急いで目の前までやってきた。

「タクト!指揮棒!貸して下さい!」
「分かった。これをもって行きなさい。」

スッと目の前にタクトが。何処から出てきたのか不思議だが、考える時間などなかった。借ります!と一言告げると、もう一度自分のコースまで駆け抜けていく。周りを見渡せば、自分と同じようにコースに戻ろうとする生徒が二人居り、しかも一人は先ほど嫌味を言ってきた女生徒ではないか。なみこもコースにたどり着き、ペースを崩さぬまま駆け出す。
僅差だが、現在なみこが先頭になっている。借りたタクトを両手で大事に持っているせいか少し走りづらいが、このままいけば。
(いち、ばん…!)
もう、目の前の白いゴールテープしか見えなかった。
そのとき、あの女生徒と僅かに肩が接触しなみこがほんの少しだけ体勢を崩す。しかし、そのくらいの衝撃で怯んでいるわけにはいかなと、力を込め体勢を建て直した。
(あっ!)
そう思ったときは、もう遅かった。足首辺りに違和感を覚え、ひねってしまったと悟った瞬間、鈍い痛みがなみこの足を襲った。

あっという間に並んでいた二人に追い抜かれていく。それがまるでスローモーションのように見え、しかしこのままではいけないと痛む足を踏み込むが、もう追い越せる距離ではなかった。じんじんと痛む足を誰にも気づかれないよう表情は崩さずに一番後ろを走っていた生徒とは僅かな差で、ギリギリ三位でゴールとなってしまったのだった。
(三位…。)
膝に手をつき、肩で息をしながら地面を見つめた。今までに無い大量の汗が頬を伝う。それを拭いながら前を見れば、勝利を喜ぶあの女生徒。なみこは、見たくないというように、揺れる瞳を閉じた。



「あいつ…。」

葉月の小さく漏れた言葉が、氷室にしっかり聞こえた。今まで一位を独走していた少女のスピードが、フッと緩み、そしてすぐ後ろを走る二人に追い抜かれていく光景。
(肩が接触したときに足を捻ったか。)

三位でゴールした少女のもとまでいくと、ずいぶん体力を奪われたのかいつまでたっても顔を上げない様を、黙ってみていることは出来なかった。小波。そう声を掛ければ、物凄い勢いで顔を上げ、氷室を見ると、笑った。

「先生、ごめんなさい、三位でした。ごめんなさい。」

眉をハの字にして、申し訳なさそうに自分の失態を詫びた。持っていたタクトを大事そうに握り締めながら。
(…君はどうしてそこまで、自分を追い込もうとする。)
そらされた瞳があまりにも悲しげで、氷室は掛ける言葉を失った。足に目を向けると、腫れた足首が目に入る。付いて来なさいと言い、疑問の声を上げる少女の腕を掴み歩き出すと戸惑いながらも素直についてきたので、すぐに掴んだ腕を放した。


「座りなさい。怪我の処置をする。」
「あの、他の競技は…。」
「安心しなさい。控えの者が出るよう伝えてある。」

さらりと流れる風が火照った頬を撫で、熱を冷ます。氷室に座れと促され、なみこは丸椅子に遠慮がちに座りあたりを見回した。自分は今まで縁がなかったが、白で統一された保健室の独特の雰囲気は案外心地の良い場所だったようだ。保健の先生はテントで怪我をした生徒の治療で手一杯のようで、だから自分はここに連れてこられたのかと納得していると、シップを持って自分の前にしゃがみこむ氷室と目が合った。

「怪我、ばれてたんですね。」
「当たり前だ。」
「みんなは?」
「気づいてはいないようだ。…葉月以外は。」
「…駄目ですね。結局、から回ってばかりなんです、私は。」

氷室の大きな手が足を掴み、熱を持ったそれが氷室の膝に置かれたので、一気に緊張が走った。
まるで壊れ物を扱うみたいに。
赤ん坊の足を持つように。


「君は…よく、自分を卑下する。」

患部を覆うシップがあまりにも冷たく、なみこはタクトを膝の上に置き、意味もなく膝をさすった。静かな部屋に、氷室のやけに低い声だけが響く。

「君が駄目だと、誰が言った。自分を卑下し、欠点ばかりを強調するような物言いは感心しない。それは自分の長所さえも潰してしまう可能性があるからだ。」
「…でも私は、自分を褒めるなんてそんな器用なこと、出来ません。今日も結局、誰の役に立ったわけでもない。逆に足を引っ張ってしまったくらいです。」

ぐるりぐるり、丁寧に巻かれていく包帯を目で追うことしか出来なかった。膝をさする手が少し震えていることに気づき、その手でグーを作り力を込めた。氷室は手をとめることをせずに、チラリと外を見やった。

「このまま行けば氷室学級が優勝だろう。」
「そう、なんですか…?」
「…私は生徒に優劣をつけるのはあまり好きではない。しかし、今回の成績は君の活躍のおかげだろうな。」
「そんな…!それは違います!」
「では、君が居なければ誰が毎日ランニングをした?」
「!」
「君が居なければ誰がクラスを一つにまとめることが出来た。」
「先生、」

そこに降りてきた氷室の声も表情も、風のように柔らかく、あの日自分を正しい場所に導いてくれた時のように優しかった。先生、先生。そう心の中で繰り返しては、気持ちを温めていく。
治療が終わったその大きな手が、なみこの堅く握り締めた拳を開かせた。食い込んで出来てしまった爪跡をさする。

「自分を大切にしなさい小波。そうすれば、今よりもっと周りにも優しくなれる。」

外から、生徒の大きな声だけが響いてくる。しかしなみこにはもう、氷室の声しか届いていなかった。そして、包むように握られた氷室の手を見て、気づいてしまった。

あの、ピアノの演奏を聴いた日に感じた激情がなんだったのか今ならわかる。

(私、氷室先生の事…。)

人として。男として。氷室への新たな感情
初めて経験する、恋情。

しかし、始まった瞬間、恋は終わりを告げた。何故ならば彼は教師で、自分は生徒なのだから。それと同時に、彼は大人であり自分は子供。
どうして気づいてしまったのだろうか、この叶わない想いを。いや、本当は、気づかないよう必死に隠していたのかもしれない。泣きそうになるのを押さえ、瞼に影を落とした。

「…、先生。」
「何だ?」
「怪我に気づいてくれて、少し嬉しかったです。」
「まったく君は…。次からは隠さず報告するように。」

外からは、氷室のクラスが優勝したというアナウンスが流れ、静かな保健室に響いた。




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