[携帯モード] [URL送信]
花の芽は靴の裏




葉月は理解できないという顔でなみこを見たが、当の本人はそれでいいのだと声を上げて笑った。

「だって、みんな知ってたらそれは別人だもん。」
「あの人が優しいなんて、あまり考えたくない。」

放課後、なみこはほうきを片手に葉月と会話をしていた。授業中にこそこそ会話していた罰に、という事だったが、一方的に話しかけていたのはなみこだったので一人で始めた掃除。葉月も結局鍵をしめるという役割を担っているので残っている。手伝うと言ったのだが、頑なに拒む彼女に折れたはいいが帰るわけにもいかず話し相手にだけなっている。
ただ、話し相手になったのはいいが今度は話が盛り上がりすぎ、掃除の手がピタリと止まっていた。
そしてその話の内容は、他でもないこの二人の担任、氷室零一の事だ。
なみこが氷室を優しい人間扱いをするので葉月は納得がいかない、という話なのだが。

「でも氷室先生って結構隠れファン多いんだよ。ほら、身長高いし美形だし、そのあたりに惹かれる子が多いみたい。」
「へぇ…。」
「かく言う私も隠れファンなのかなぁ。こう、ぎゃふんと言わせたいみたいな。」
「…それはファンじゃないと思う。」

だよね、と苦笑いをしながらまた手を動かし始めたなみこを見ながら、最近よく氷室の話をするなと思った。今までそんな話をしたことがなかったのに、いつからだ。ああ、確かこの間のテストか。葉月はもう一度なみこを見つめる。…猫というよりは、犬みたいなタイプの彼女に懐かれたら、こんな風にその人物の話ばかりするのだろうかと、少しだけ氷室を羨ましく思えた。

「げ、葉月君、今日お仕事じゃなかったっけ?」
「ああ。」

また葉月君に迷惑をかけてしまったと、彼の鞄を持って入り口まで走る。

「なみこ?」
「ほらほら、玄関まで送りますわ旦那様!お仕事に遅れたら大変ですわよ!鍵閉めなんて私がやっときますから!」
「いいのか…?」
「鍵くらい、いいよ全然。任せといてくださいませ旦那様!」

ふざけた言い様に葉月は怒る事はせず、むしろ嬉しそうに笑ってなみこの隣に並ぶ。なみこは葉月の歩幅に合わせ無理やり大またで歩き、それがいけなかったのが上履きごと滑ってしまい見事に開脚した。股が裂ける思いをしながら、ギャー!なんて可愛らしくない断末魔にも葉月は動じずなみこを引っ張りあげた。

「体、柔らかいんだな。」
「つっこみどころが違うよ葉月君・・・。ありがと。」

にこりと笑うと、彼もまたにこりと笑い返す。彼の年相応な笑顔を見れることが幸せだと確信していた。雑誌で見る葉月の笑顔があまりにも作られているもので心配するが、学校でこうした自分との下らないやりとりの中であの笑顔を見せてくれるのなら、どんなに女の子らしくないと言われようがどうでも良かった。いや、さっきのは本気で滑って開脚になってしまったのだが。そのまま葉月はなみこから鞄を受け取り、掃除がんばれ、と一言告げ帰って行った。玄関まで送るって言ったのにと一人愚痴りながらくるりと向きを変え、教室に戻ろうとした。
今戻れば、あの静まり返った教室で一人寂しく掃除か、なんて頭をよぎり、気分がブルーになる。そんな考えのまま教室へは戻りたくなかったので気分転換にと、遠回りし教室も戻ることにした。廊下の白い線を辿るように歩き、私今モデル歩きスキルが上がっている気がするなんて下らないことを考えていたら、階段にたどり着いた。
ここは三階。自分の教室も三階。
まずは四階の鍵を閉めてから教室の掃除を適当に済ませ、荷物を持って一階まで閉めていこう。一目散に四階へと二段飛ばしで駆け上がった。いまだに股がジンジンして痛いけど、そこは若さでカバーする。

「とーっちゃっく」

だれも聞いていないが、一応ボリュームの下がった独り言だ。どこも窓が開いていないのかなんだがあまりにも静か過ぎで少し恐怖を感じる。雰囲気押され、こちらまで抜き足差し足忍び足。音をたてないよう、それでいてまた線を辿るように歩いた。

「…?」

自然と足が止まったのは、音楽室から聞こえてくるピアノの音のせいだった。
(まだ誰か残ってるのかな?)
コンサートなど、そういった大層な場所に行った事が無いので生のピアノの演奏を初めて聴いた。勿論、音楽の授業で教科書のものを引くのは聞いたことがあるが、どれもただの見本でありきちんとした演奏を聞くのが初めてだった。
(…すごく優しい演奏、どんな人が弾いてるんだろ…邪魔しないようにしなきゃ。)
言いつつ、気になってしまう。こんな綺麗な音を人が奏でていると思ったら、ぞくぞくと鳥肌が立った。運良く音楽室のドアに隙間がある。そこからゆっくり、片目たけで覗いてみた。
(氷室先生!?)
心臓が、ゴトリと揺れるような音がした。そこには、いつもの怖い表情をした氷室ではなく、自分が見たことのない氷室が、目の前にいる。なみこはなんとも言いようの無い感覚が体中を巡るような感じたことのない気持ちが溢れた。
氷室に気をとられ、戸についた手に力が入ってしまい、ガタリと音を立ててしまう。
(やばい!!)
ピタリと止まってしまった音色と、普段の表情に戻った氷室と目が合ってしまった。

「小波…」

観念したかのようにドアを静かに開けると、氷室はゆっくりピアノに蓋をした。立ち上がり、一度ネクタイをきちんと締めなおす氷室の大きな影と、なみこの小さな影が交わった。

「すみません!お邪魔するつもりはなかったんですけど…。」
「…なんだ?」

また、ゴトリと。優しい応答に心がざわつく。

「はい…あの、音楽室の戸締りを…。」
「…もう、そんな時間か…。」
「あの…。」
「どうした?」
「すごく綺麗な演奏でした。」
「…そうか、ありがとう。」

葉月から向けられた笑顔と、今氷室から得た、微笑。一体何処が違うというのだろう。いや、変わらないはずなのに、嬉しいとは思えなかった。それどころか、自分が戸惑っている。切ないとさえ感じる。

「あの…。」
「戸締りは私がしておく。早く帰りなさい。…もう遅い。」
「はい…失礼します。」

(氷室先生って、あんなに優しく演奏するんだな…。)

自分でも分からないが、泣いてしまいたくなったのは何故なのか。胸の辺りを手で押さえ考えてみるが、答えは分からなかった。
すごく綺麗な演奏でした。
どうしてあんな薄っぺらい感想しかでてこなかったのかと後悔する間も無く、氷室が早く出ろと目で促したのを悟り、半ば走るようにその場を去った。
今日はもう掃除なんて考えていられない。氷室もそのことは流してくれているようだ。当初考えていた計画はバネ如く頭から吹き飛び、息つく暇も与えずにすべての戸締りをした。最後に教室に戻り掃除用具入れに乱雑に箒を押し込んで、荷物を抱え教室を飛び出し、下駄箱までたどり着く。自分の靴を取り、電池が切れたかのように座り込んだ。
ふと、ガラスに映った自分と目があった。表情はそれはそれは酷いもので、それを隠すように膝に顔を埋め、息を整える。

(どうして。)

心がざわついて止まないのは。どうして。



戻る


あきゅろす。
無料HPエムペ!