[携帯モード] [URL送信]
蔦の花孵る




「やっ、たぁー…!」

周りの目も気にせず喜びを止められない女生徒が1人。叫びはまだ良かった。ただ廊下で膝をつき拳を高く掲げたのはみっともないと、有沢は頭を抱えた。
怒る気は、勿論ないのだが。



今回のテストで、なみこの名前がトップに。宣言通り学年総合一位になる。今回の結果に驚く者が多かったが、彼女の努力を知っている者には至極当然な事であった。
ほぼ毎日、それこそ時間を決めて無理なく計画的に効率よく勉強をした彼女は、輝かしい栄光を掴み取ったのだ。がむしゃらに寝る間も削り自分の体調をも気にせず勉強していた頃とは全く違う彼女を変えたのは一体だれなのか、有沢には見当も付かない。


「おめでとう。くやしいけれど、貴方の努力の成果ね。」
「志穂さん!志穂さんのおかげだよー!本当にありがとう!」

有沢は心から喜んでいた。それは彼女のしてきた努力を間近で見てきたせいもあるのだが、いつも可愛がっているこの妹のような友人が喜んでいるのだから、喜ばないわけにはいかない。むしろ誇らしい友人を持てて嬉しい限りだ。

「今回はあの葉月君も寝ていなかったようだし、本当に一番になったのね。」
「うん!あー、早く先生に会いに行かなきゃ。喜んでくれるかな〜。」


先生。勿論担任、氷室零一の事だ。
はしゃぐ彼女を見ながら、氷室先生もきっと喜ぶだろうと、有沢は笑った。
なみこはキョロキョロと辺りを見回すが、それらしき人物は居らず肩を落とすと、今度は葉月に声をかけられる。
葉月の順位は二位なのだが、彼はそれをまったく気にしていないあたり何とも彼らしい。
なみこが見る限り彼もまた、とても喜んでくれているようにも見える。葉月も心配してくれた一人なのだから。

「おめでとう。お前、凄いな。驚いた。」
「有難う葉月君!いやー、1位って気持ちいいね!」
「ああ。良かったな。なみこが嬉しいのなら、俺も嬉しい。」

ふわりと笑う葉月に、なみこも笑顔で返す。キャアア!と聞こえたのはおそらく葉月のファンで、笑うことのない彼をみての悲鳴だ。それを背に、氷室がどこにいるのか葉月に問えば、当たり前かのように知らないと返ってきた。

「でも…普通は職員室じゃないのか?」
「あ、そっか。だよねー普通に考えて。」

興奮しているのか、一番思い浮かぶ場所のはずの職員室がまったく頭を横切らなかった。そのまま葉月に別れを告げ、急ぎ足で職員室へと向かう。
廊下を走れば、せっかく誉められに行くのにそれについてのお小言がつくだろうと推測されるからだ。しかし、この一歩一歩がもどかしく早くたどり着きたい反面、いつもの倍ほど足取りが軽いと感じた。




職員室の前で息を整え、失礼しますと扉をあければ視界に飛び込んでくるグレーのスーツ。ピンと伸びた背筋。他より頭一つ飛び出たその人。机に向かって作業をしているのかこちらに気づく様子がない。緊張するなどらしくないのだが、何故か心音は速まるばかりで。近づけば、いつもは見上げるばかりのその人のつむじがよく見えた。

氷室先生。
そう小さく声をかけると、彼は持っていた赤のボールペンを置き、振り返った。


「小波か。」
「先生、一番です。一番になれました!」
「大変結構。これからも氷室学級のエースとして、一位をキープし続けなさい。」
「え?あ…はい。」



(あれ?)

それだけ?となみこは眉をひそめた。そんな思いとは裏腹に、氷室はいつまでたっても去らない、さらに眉間にシワを寄せ始めたなみこにどうした?と声をかけるだけで、その場が変わることはなく。

(期待に答えてくれて嬉しいとか、さすが私の生徒だとか、無いの?)

涼しげな顔をしているこの担任に、労わりの心はないのか。


(他には、無いの?)

「他、とは?」

最後の台詞が小さく口から漏れており、今度氷室が眉をひそめる番になった。なみこの言葉の意味が分からなかったからだ。
いつもは彼女を見下ろす側だが、氷室が座ってる今、彼女の顔を覗くのは安易なことである。
なみこはハっとし口を押さえるが、それはもう後の祭りであり、覗く氷室から逃れるよう目をそらした。

「…何でもありません」

沸々と、募るものは怒りかもやもやか。考えるのも嫌になり、一歩後ずさりながら氷室を見据え一言。

「………失・礼・し・ま・し・た!」
「小波?」

くるりと翻を返し、職員室を出て、後ろ手でバン!と思い切り扉を閉めた。反動で少し開いてしまうほどに強く。どうやら怒りがそちらに行ってしまったらしいのだが、今は罪悪感なんてものは持てない。職員室の中が一瞬だけ静かになったが、知らない振りをして教室まで駆け出した。





氷室の思考は完全に停止していた。勿論見た目はいつもと変わらなく、他の人間にはまったく分からないであろう彼の心中。普段あんな態度をとらない生徒だけに、彼は止まった。
しかしそこは氷室零一、わずか数秒で正気を取り戻し、乱暴に閉められた戸を見る。
ほめられたことではない出て行き方をしたが、彼女からは何か怒りのようなものが出ていたので、感情の矛先がそちらに向いたのだろう。そう結論付け、再び机に向かいボールペンを手にし作業を再開させた。


(私は何か変なことを言っただろうか。)

確か自分が言葉を発した後に態度が変わった。しかしいくら思い返しても反感をかうような言葉を発したつもりはない。

いつのまにか作業している手が止まっている事に気づき、氷室は一度この思考に蓋をした。






――――
せっかくいい気分で1日が過ごせると思ったのに。そう思いながら、なみこは自分の教室へ戻る。
隣の席である葉月珪は寝ているようで突っ伏したまま動かないのでそれを起こさないようゆっくりと椅子を引き、魂が抜けきったように腰を下ろした。






「なみこー!びっくりしたよー。一位とか何があったわけ!?とにかくおめでと〜!私も鼻が高いっ!」

昼休み、いつも昼食を共にする奈津実がなみこのクラスまで足を運ぶ。初めの頃はなみこも奈津実のクラスへ行ったりしていたが、何故かこちらのクラスのほうが落ち着くと奈津実が言ってからはもうずっとここで昼食をとっていた。
いつもは笑顔で迎えるなみこの顔は、何か疲れ切ったような表情だったので、さすがに心配になる。

「なっちんか…有難う。君はいい子だよ…本当に本当に心の底から思うねっ。」
「え…何か暗くない?何かあったの?」
「どーもこーもないよっ!だって氷………。」

言いかけて、止める。奈津実はその先を待っているのか、パンを頬張りながらも不思議な顔でなみこを凝視していた。

何故こんなにも怒りが沸くのか。そもそも自分は何故1位をとったにも関わらずこんなに怒ったり沈んだりしているのか。時間が進む中、その疑問だけはまったく解決されずに止まったままだった。
そして今発しようとした氷室という名前。彼が一体何をしたというつもりだったのか。彼は自分を氷室学級のエースだと言ってくれたのに。


誉めて、くれたのに。


「なっちん、何でかな。」
「何が?」
「何か私“褒めて褒めて”って飼い主の周りをぐるぐる回る犬みたい。」
「はぁ?」
「うん。我ながらいい例え…いやいやいや!良くない!」
「ごめん私…今日のあんたにはついて行けないわ。」

奈津実があきれる中、なみこは頭を抱えた。

そして、そんな思考が一気に吹っ飛んだのはその日の放課後。
避けていた氷室に捕まり音楽準備室に呼ばれてしまい、もう帰るわけには行かない。今朝はあんなに軽かった足取りはまるで鉛が付いたように重く、笑顔で帰る他の生徒がこんなにもうらやましく思えたのは初めてだ。
吹奏楽部も今日は休みなのか、何だかあまりにも静かになった廊下がまるで死刑台への道のりに見えるほどなみこは氷室に会いたくなかった。
氷室の説教は余り受けたことがないので分からないが、きっと反論できない正論をつらつらの並べるだろうと、安易に想像が出来てしまう。職員室ではなく音楽準備室という指定が余りにも生々しく、絶対に溜まった鬱憤をぶつけてくるに違いない。正直怒られる要素ならば沢山持っているのだから。




朝職員室でしたように息を整え、音楽準備室の戸に手をかけた。

「失礼します…。」


いつもよりワントーン低い声に気づいた氷室は、楽譜を見る手を止めて振り返えり、こちらへ来なさいと促した。

「あの…何でしょう…。」
「今朝の態度は何だ。説明しなさい。」

職員室の時とは違い、立ったまま、しかも腕を組んだ氷室の迫力になみこは一歩後ずさった。

「わ、わかりません。」
「それは答えになっていない。」
「…そんな事言われたって。」
「明らかに私との会話の途中で態度が急変した。」

褒めてくれない氷室に怒っていたなど、言ってしまいたい所だが。

(先生は先生の言葉で褒めてくれたのに、気づけなかったのは私だけど)

しかしやはり、納得のいかないものである。


「先生は、どうしてだと思いましたか?」
「…質問を質問で返すのか君は。」

つりり上がった片眉に、肩をすくめ下を向いた。
これは怒られる。そう思い覚悟していたのだが、いつまでたっても落ちない雷を不思議に思い、なみこはゆっくり氷室を覗き見れば、彼は一つため息をつき今度は困ったように顔になった。

「先生?」
「すまない。今朝から考えていたのだが、何故君が怒ったのか、分からない。しかし私が発した言葉に対して君は怒りを見せたことは確実だ。」
「…え」
「嫌な思いをしたのだろう。すまなかった。よければ理由を聞かせて欲しい。」

そう呟き、苦しそうに目を伏せた氷室の予想外の行動に、なみこは衝撃を受けた。
こんな人だったろうか。この世界のマナーや知識、それから自分の生徒の事。それらを全て知っている大人の鏡のような人。そしていつも前向きで、自分にも他人にも厳しい、アンドロイド教師とも言われている人。

そんなイメージがガラリと崩れた瞬間だった。


「あ、謝らないで下さい!すみません。私の、我が儘だったんです。」

1位を目指すきっかけになったのは氷室の一言。
行き詰まっていたなみこを導いたのも、氷室の優しさ。


「先生、に…あの……ほ…褒められたかっただけ、なんです。」

そう言い怖々と氷室を見ると、彼は驚いた後フッと、分からない程度の笑顔を見せた。

「え、あの。」
「そうか。そうだな…。小波は褒めないと伸びない、そう言っていた事を忘れていた。」

その笑った顔が余りにも優しくて、なみこは目を離すことが出来ない。そんな彼女に、氷室は言った。


「小波の努力が1位へと導いた。君は氷室学級のエースであり、私の自慢の生徒だ。よくやったな。」

ぽん、と頭に置かれた大きな手が心地よい。
じわりじわりと実感出来た1位。ほんの少しだけ震えた手のひらはそっと隠した。


全てはこの人のから始まった、自分の新しい世界。
その新しい世界で見つけた、氷室への変な執着心。

(何か、変だ私)

それより何より、新しい氷室を発見出来た事が何より嬉しく感じた。




戻る


あきゅろす。
無料HPエムペ!