迷い鳥の飛ぶ空は

『小碓皇子は天皇の命令で九州の熊襲(くまそ)を征伐に向かいました。
熊襲の王である川上梟帥(かわかみたける)の宴に、小碓皇子は綺麗な女性に姿をやつして紛れ込みました。
川上梟帥は皇子の美しさに惹かれ、近くで酌をするように命じます。
酒を飲んで油断した川上梟帥の胸を、皇子は隠し持っていた剣で刺しました。

小碓皇子の正体を知り、倒れた川上梟帥はその豪胆な心に感心しました。
そして、『これからは「日本武皇子(ヤマトタケルのみこ)」と名乗りなさい』と言い残して死にました。
今までは自分が国で一番強いと思い名乗っていた「タケル」の名を、自分を倒した小碓皇子に譲ったのです。
こうして小碓皇子は、以後ヤマトタケルノミコと名乗るようになりました……――。』



庸介の語った古代の神話に健は頷いた。

「あー、むかーし聞いた覚えあるわ」
「『たける』って、そういう強い人を指す言葉なんだよ」
「でも、その話の通りだと俺は誰かに強さを譲る役やん。自分が強くなりたいんやけどなあ」

いい名前なのだと告げられ、健は複雑そうに笑った。
美しい女に扮した皇子にたぶらかされ、間抜けにも命を落とした男は、まるで……。

「俺も川上梟帥と一緒や。お前を食おう思て、逆に食われた」

はは、と庸介がおかしそうに笑う。

「俺を美女だと間違えて?」
「そう、儚い女役に扮するお前に騙されて、ヤられてもた」
「悪くはなかっただろう?」
「まあな」



まんざらでもなさそうに頷く健の耳元に、そっと唇を近づける。
猛々しい王を惑わせた偽りの美女のように、どこか毒を含んだ艶めかしさで庸介は誘いを囁く。

「あんたの全部を食べてあげようか」

冗談で返されるという予想は外れ、「うん、俺を食ってしまえ」と頷かれたから、思わず瞬きをした。
視線を移すと、健がにっこりと笑っていた。

「俺のなけなしの強さを分けてやる。だからもう、お前は怯えなくていい」

さらに大きく見開かれた庸介の瞳を覗き込み、健はその白く冷たい頬を両手で包んだ。



「いつもお前の目、怖いって言ってる」

狭い窓から差し込んだ光がちょうど二人の横顔に当たり、互いの瞳の奥までを透かしてしまう。
ゆらゆらと不安定に揺れる黒く澄んだ双眸に、健は諭すように言い聞かせる。

「庸介、恐がるなよ。お前がどんな奴でも、今までなにをしてきたとしても、俺は絶対にお前から離れたりはせん」
「……うん」
「側におるよ、庸介」

切れ長の瞳から一筋の光が零れ落ちるのを、健はそっと指先で払った。

(この人さえ側にいれば、怖いものなんてなにもない気がする)

まるで、永い呪縛が解けたようであった。
強さをくれた人。
愛しいと抱きしめ、たくさんの温かなものを与えてくれる人。

いつか全てを話そう。
きっとこの人は笑って受け止めてくれる。



健の愛によって庸介はもう一度生まれた。
空っぽな容器に注がれた優しく潤んだ愛は、感覚を忘れひび割れた心のひだに滲み通り、耐えがたい渇きと飢えを思い出させた。
だが同時に、新しい想いの芽も息吹かせてもいたのだ。

自分は無力だと、なにも守ることができない弱い存在だと思い込んでいた。
でも、と窓の外に広がる澄んだ夕焼けの空を見上げ、庸介は己の心に誓いを立てた。

(俺もあなたを守る。なにがあっても側にいる)

細い背中に祈りを込めるように指を縋り付かせ、庸介は健の胸に顔を埋めて泣く。
それは産声にも似ていた。


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あきゅろす。
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