迷い鳥の飛ぶ空は
4
『小碓皇子は天皇の命令で九州の熊襲(くまそ)を征伐に向かいました。
熊襲の王である川上梟帥(かわかみたける)の宴に、小碓皇子は綺麗な女性に姿をやつして紛れ込みました。
川上梟帥は皇子の美しさに惹かれ、近くで酌をするように命じます。
酒を飲んで油断した川上梟帥の胸を、皇子は隠し持っていた剣で刺しました。
小碓皇子の正体を知り、倒れた川上梟帥はその豪胆な心に感心しました。
そして、『これからは「日本武皇子(ヤマトタケルのみこ)」と名乗りなさい』と言い残して死にました。
今までは自分が国で一番強いと思い名乗っていた「タケル」の名を、自分を倒した小碓皇子に譲ったのです。
こうして小碓皇子は、以後ヤマトタケルノミコと名乗るようになりました……――。』
庸介の語った古代の神話に健は頷いた。
「あー、むかーし聞いた覚えあるわ」
「『たける』って、そういう強い人を指す言葉なんだよ」
「でも、その話の通りだと俺は誰かに強さを譲る役やん。自分が強くなりたいんやけどなあ」
いい名前なのだと告げられ、健は複雑そうに笑った。
美しい女に扮した皇子にたぶらかされ、間抜けにも命を落とした男は、まるで……。
「俺も川上梟帥と一緒や。お前を食おう思て、逆に食われた」
はは、と庸介がおかしそうに笑う。
「俺を美女だと間違えて?」
「そう、儚い女役に扮するお前に騙されて、ヤられてもた」
「悪くはなかっただろう?」
「まあな」
まんざらでもなさそうに頷く健の耳元に、そっと唇を近づける。
猛々しい王を惑わせた偽りの美女のように、どこか毒を含んだ艶めかしさで庸介は誘いを囁く。
「あんたの全部を食べてあげようか」
冗談で返されるという予想は外れ、「うん、俺を食ってしまえ」と頷かれたから、思わず瞬きをした。
視線を移すと、健がにっこりと笑っていた。
「俺のなけなしの強さを分けてやる。だからもう、お前は怯えなくていい」
さらに大きく見開かれた庸介の瞳を覗き込み、健はその白く冷たい頬を両手で包んだ。
「いつもお前の目、怖いって言ってる」
狭い窓から差し込んだ光がちょうど二人の横顔に当たり、互いの瞳の奥までを透かしてしまう。
ゆらゆらと不安定に揺れる黒く澄んだ双眸に、健は諭すように言い聞かせる。
「庸介、恐がるなよ。お前がどんな奴でも、今までなにをしてきたとしても、俺は絶対にお前から離れたりはせん」
「……うん」
「側におるよ、庸介」
切れ長の瞳から一筋の光が零れ落ちるのを、健はそっと指先で払った。
(この人さえ側にいれば、怖いものなんてなにもない気がする)
まるで、永い呪縛が解けたようであった。
強さをくれた人。
愛しいと抱きしめ、たくさんの温かなものを与えてくれる人。
いつか全てを話そう。
きっとこの人は笑って受け止めてくれる。
健の愛によって庸介はもう一度生まれた。
空っぽな容器に注がれた優しく潤んだ愛は、感覚を忘れひび割れた心のひだに滲み通り、耐えがたい渇きと飢えを思い出させた。
だが同時に、新しい想いの芽も息吹かせてもいたのだ。
自分は無力だと、なにも守ることができない弱い存在だと思い込んでいた。
でも、と窓の外に広がる澄んだ夕焼けの空を見上げ、庸介は己の心に誓いを立てた。
(俺もあなたを守る。なにがあっても側にいる)
細い背中に祈りを込めるように指を縋り付かせ、庸介は健の胸に顔を埋めて泣く。
それは産声にも似ていた。
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