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こへにょたけ

「じゃ、授業始めるぞ。皆席着けー」
がら、と大きな音をたてて扉を開けながら入って来たのはこの大川学園で日本史を担当している七松小平太。今年から就任したばかりの新米教師だ。地歴担当なのに毎日ジャージ姿で、放課後になるとバレー部ではないのにバレー部の練習に参加している。教え方は面白くてすぐ頭に入ってくるし、運動神経抜群だし何よりかっこいい。七松は教室に入って一通りの連絡事項を言うと、授業を始める、と言って黒板に向かって難しい漢字を書き並べ始めた。七松が担当している日本史は苦手、つまらないとよく言われる科目である。教科書は分厚いし、時代ごとに出てくるものが違ったり人名は難しいし、出てくる語句は殆どがよく分からない難しい漢字で構成されていたり一つ一つの語句の意味が長かったりとあまり興味をそそられるものではない。普通ならよく分からないだとか飽きたとか言って黒板を見ない者が多いのだが、七松の授業は皆が黒板を見ている。生徒を飽きさせないようにと考えられて工夫された授業内容は男女問わず大人気である。七松が黒板に平安時代の仏像名を書き終わり、くるりと身体を反転させた。その途端、教室中にざわめきが起こった。突然教室がうるさくなり、七松は教科書をひらひらとさせながら生徒に注意する。
「そこー、煩いぞ」
七松の声でぴたりとざわめきが止む。すると七松は満面の笑みを浮かべて説明をするために再度黒板と向き合った。七松が図を取り出して仏像や仏絵の説明をしている間、女子の間でひそひそと雑談が開始される。
(七松先生のあの笑顔はやばいでしょ)
(ね、七松先生かっこよすぎ)
(あーんもう付き合いたーい)
皆が騒ぐのも当たり前だ、そこらの雑誌に載っているモデル並に、いやモデル以上にかっこいい。いつもジャージを着ているから身体の線が無いように見えるが、就任式の際に一度だけ着たスーツが七松の全てを現していた。七松小平太、二十三歳独身職業公務員。かっこよくて優しくて、スタイル共に運動神経抜群。まさに女子の理想を実現したような人だ。当たり前だが女子に大人気。新学期が始まってそう経っていないのに、すでに七松先生ファンクラブなるものまでが生徒間で出来ているほどだ。皆が七松に視線を向けて、きゃあきゃあと騒いでいる。七松に恋心を抱いている生徒だって少なからず何人かいるほどだ。
(七松先生、今日もかっこいいなぁ…)
机に肘をついてはぁ、と溜息をついて七松を見つめる竹谷八左ヱ門。彼女もその七松に恋心を抱く一人の生徒である。八左ヱ門、という名前に彼女は酷くコンプレックスを持っていた。せっかく女に生まれてきたのに古風な祖父が何を思ったか八左ヱ門と言う名前にした。小さい頃は何も分からずに八左ヱ門と呼ばれて嬉しかったけど、だんだん歳を重ねるごとに八左ヱ門と言う名前が嫌で嫌で仕方がなくなった。友人達は皆、八左ヱ門と本名で呼ばれることを嫌っているのを知っているので、八左ヱ門とは呼ばない。決まって皆、愛称で八と呼ぶ。
「ね、八!七松先生ちょうかっこよくない?」
「あ、うん…」
「あんなかっこいいイケメンと付き合いたーい」
友人達との会話で竹谷はあまり七松に関してうやむやにしているが実は七松が好きで、初めて七松に出会った時から恋をしている。
竹谷が七松に出会ったのは新学期当日。多分、大川学園の生徒の中で一番最初に会っただろうと自負している。

桜の蕾が芽吹き、花びらが粉雪のように散る新学期当日、始業式の日。春休みで気が抜けたのか竹谷は寝坊をしてしまい、自転車のペダルを思い切り漕いでいた。始業式から遅刻するなんてありえない。お母さんももっと早く起こしてくれれば良かったのにと罪もない母を心中で怒りながら少しでも早く学校へ行くために少し痛んだ髪を暖かい風に靡かせながら人通りの少ない道を全力で走り抜ける。がしゃがしゃと乱暴にペダルを漕いでスピードがついたまま曲がり角を曲がったその時。どこの誰が置いたのか知らないが曲がり角を曲がった道に比較的大きな石があった。ブレーキに手をかけたがスピードがついている自転車は急に止まる訳がなく。避けきれない。そう思った竹谷は咄嗟に目を閉じた。がしゃん、という大きな音と共に竹谷の身体はコンクリートの固い地面に叩き落とされた。
「いった……」
痛みでぱち、と目を開けると、視界には真っ青な空が映し出されている。空には雀達が呑気にちゅんちゅんと泣きながら空を優雅に飛ぶ姿があった。そこで初めて自分が仰向けの状態であることに気が付いて、馬鹿な姿に一人小さく笑った。幸い周りに人の気配がないので誰かに見られたということはないだろう。いつまでもこのままではいられないと腹筋を使って起き上がる。その時、足に妙な重みを感じてふと足を見ると、足の上に自転車が乗っかっていた。しかも運が悪いことに車輪の間にローファーが引っ掛かっている。さらけ出された素足は転んだ時に出来たかすり傷やうっすらとした青痣がいくつも出来ていた。なんとかして足を抜かないと。竹谷は足を引っ張るが、捻った足首が痛みうまく抜くことができない。時間がないのにどうしよう。新学期初日から遅刻、怪我。なんて不運なんだろう。朝から最悪なことこの上ない。泣きたい気持ちにかられ、痛む足をぎゅっと押さえ、下を向いていると上から声が聞こえた。
「大丈夫か?」
その声に顔を上げるとそこには新入社員のような、糊のついたきっちりとしたスーツを着た青年が心配そうに竹谷の顔を覗いていた。香水をつけているのだろうか、僅かなシトラスの香がする。整った顔立ちは思わず見惚れてしまうほどだ。今まで学校でかっこいいと噂されている男子にあまり目がいかなかった竹谷だが今回ばかりはかっこいいなぁと思ってしまう。
「おい、」
「ひゃあ!」
突然現れた俗に言うイケメンの登場に呆けていると何も言わないし動かない竹谷に何かあったのかと青年は再度声をかけた。声をかけられた竹谷はびくんと身体を震わせてあたふたとする。
「大丈夫か?」
「大丈――いた、」
驚いて咄嗟に動いたために足に痛みが走った。痛みで身を屈めると青年は屈んで自転車と竹谷の足を見つめる。事故見をていないが結果をみて成り行きを判断したのだろう。何も言わずに竹谷の足をゆっくりと丁寧に車輪から抜いて足の上から自転車を退かす。ようやく足を圧迫していた重みから解放された八左ヱ門は安堵の息を吐いた。
「あーあ、足首腫れてんじゃん。これじゃあ歩くのは無理だな」
「いえ、歩けます歩けます!」
「……じゃあちょっと立ってみろよ」
疑うように目を細めながら言う青年に座り込んでいた竹谷は立とうと腕に力を入れて立とうと試みた。しかし、立とうとしても足首に痛みが走って立つ所ではなく、そのまますとんと腰を地面に降ろしてしまった。じんじんとした痛みが足首から伝わってくる。あまりの痛みにうっすらと目尻に涙が浮かぶ。
「ほらな、無茶すんなよ」
「だ、だって学校…!」
「お前大川学園の生徒だろ?連れていってやるよ」
「……え、」
よいしょ、と言いながら青年は八左ヱ門を姫抱きにして抱えると、自転車の荷台に座らせた。男性に抱えられたことなど今までの人生で一度もなかったので、竹谷は驚いて顔を真っ赤にした。今までこんなことをされたのは父ぐらいしかいなかったのに。男に、しかも初めてあった知らない人にこんなことされた。真っ赤になった顔を見た青年は首を傾けて竹谷の額に手をあてる。
「熱はないようだけど、お前どうした?」
「なな!なんでもありません!」
咄嗟に腕を振ってばたばたと暴れればバランスを崩した自転車が倒れそうになる。青年は竹谷のリュックを持ちながら器用に竹谷の身体を支えた。
「お前怪我してんだから安静にしろよなー」
青年はまったく、と言って自転車に跨がった。サドルが低い文句を言うがそんなこと今の竹谷には聞こえていない。
「危ないから私の腰を持ってろ」
「は、はい」
「いけいけどんどーん!」
が、とペダルに足をかけた青年は勢い良くスピードを上げて走り出した。自分では出せないほどのスピードが出ているというのに、自転車はぐんぐんとさらにスピードを上げていく。毎日通っていいて見慣れているはずの景色が見たことのない景色になっている。振り落とされそうで、前にいる青年の腰にぎゅ、と捕まると熱が伝わってきた。どうしてか分からないが頭がくるくると回って身体が熱い。心臓がどくんどくんと高鳴る。なんだろう、この気持ちは。心なしか顔も熱い気がする。どうしたんだろう、どうしてこんな熱いんだろう。そんなことを考えていると、目の前に見慣れた学校が見え始めていた。いつもはもっと時間がかかるのに。あまりにも早すぎる。この人は本当になんなのだろう。
「着いたぞ!」
正面口から入ればいいのに、何故か青年はわざわざ遠回りして裏口から入った。入口前で自転車を止めて、リュックを肩にかけたまま再度竹谷を軽々と姫抱きで抱える。その間竹谷は恥ずかしさや戸惑いから何も言えず、顔を伏せていた。青年も何も言わずにすたすたと竹谷を抱えたまま保健室まで歩いて行くと、行儀悪く足でドアを開けた。そうだ、私を抱えてるから両手が使えないんだこの人。
「おーい伊作ー」
「はーい、どちらさま…って小平太!どうしたの?」
「なんか怪我したらしいから連れてきた。治療してやって」
保健医に小平太と呼ばれた青年は安っぽい量産されたようなベッドに竹谷とリュックを降ろすと、カーテンを閉めた。カーテンの向こう側では保健医と小平太が何か話している。何を話しているのだろうと耳を傾けたが話し声は耳に届かない。暫くした後、突然カーテンが開き小平太が顔を出した。
「あとはこの不運な保健医に頼んどいたから。今度は気をつけろよ!じゃーな」
小平太はそう言うとまた乱暴にドアを閉めて帰って行った。まさに嵐、と呼ぶのに相応しい人だ。そっと胸に手をあてると、心臓はまだばくばくと鼓動を刻んでいて顔がいまだに熱を持っていた。あの人が触れた所が熱くて熱くて仕方ない。あの姿を思い出すだけでさらに胸が熱くなる。私、どうしちゃったんだろう。初めての感情にどうしたらいいか分からなくなって頭が混乱してしまう。また顔が熱くなったその時だった。
「あ、大丈夫?」
突然ひょこ、とカーテンの間から顔を出した保健医がこちらを見る。びっくりしてこくこくと激しく首を縦に降れば、保健医はにっこりと柔らかい笑みを浮かべて良かったと言った。包帯やら湿布やらを持った保健医は小さい台の上に竹谷の足を置いて、かすり傷に消毒液をつけると絆創膏を貼った。さらに熱を持っている足首に湿布を貼り、手際よく包帯をくるくると巻き付ける。
「女の子なんだから気をつけるんだよ」
「はい……」
しゅん、と頭を下げた竹谷に保健医は笑って軽く頭を撫でる。
「よかったね、あとでお礼を言うんだよ?」
「お礼って言っても、私あの人のこと知らないし……」
「大丈夫、彼とはまたすぐに会えるよ」
その時は保健医の言っていることがよく分からなかったが、治療を終わらせて急いで向かった、就任式が行われている体育館でようやく保健医が言った言葉の意味がわかった。

「今年から二年の日本史を受け持つことになりました。七松小平太です、よろしくお願いします」
壇上には先程竹谷を助けてくれたあの青年がいたのだ。体育館の一番後ろで足首に包帯を巻いた竹谷がぽかん、と口を開けたまま壇上にいる新任教師を見つめる。確かにあの時、どうして学校名がわかったんだろうかとか色々疑問が浮かんだけど、ようやくその謎が解けた。彼が噂の新任教師だったのだ。誰に向けられたか分からない、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべた七松先生に黄色い声が飛び交った。

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