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ラサラス2

こんな仕打ちを受けなければならないほど、俺は前世でどんな罰を犯したんだろうか。窃盗か、人殺しか。それとも古くから禁忌と謳われる神殺しか。何にせよ俺がこの柵から逃れるには自らの命を捨てればいい。簡単なことだ。ああ、馬鹿馬鹿しい。
だけど、死にたいと望んでいても死ねない俺はただの臆病者だ。



脳の奥底にある、一番古い記憶。脳裏に映るのはぼやけて全く見えない両親であろう顔の輪郭。物心がついた時から物を見るための両目は全く使い物にならなかった。遠くにあるものはおろか、近くにあるものですらぼやけて何も見えない。分かるのは漠然とした物の形だけ。視界に映る人間は全員のっぺらぼう、物は丸か四角か三角、風景はただの塗り潰された単色でしかない。だから鮮明に映る世界を見たことがない。生んでくれた両親の顔すら知らない。いや、見たことがない。形しか分からないから、ころころと変わる人の表情を見分けることなんて到底不可能で。喜怒哀楽を表現する表情が全く分からない。なんとかしようと成長段階にある小さな頭で必死に考えて、使い物にならない両目の代わりに聴覚を研ぎ澄ませて声色を伺って感情を見極めようと努力した。


「お前と遊ぶとつまんないから遊んでやんない!」
同じ背丈ののっぺらぼうが肩を押した。体勢が崩れた身体は雨が降って窪みに溜まった泥水の上で尻餅をついた。母から「汚してはいけないよ」と念を押されたばかりだというのに。どうしよう、怒られる。何も言わずに俯いていると、その場にいた小さいのっぺらぼうは罵声を浴びせ、笑いながらどこかに姿を消していった。隠れ鬼でもしているのだろうか。遠くから楽しそうに数を数える声が聞こえる。隠れ鬼なんて最後にしたのはいつだったろうか。一緒に遊んだのはいつのことだったろうか。泥水に浸かった小袖が水気を吸い、どんどん重くなり茶色く変色していく。重くなった小袖の裾をぎゅっと握りしめて、ゆっくりと立ち上がると頬を伝い落ちてくる涙を拭いながら村外れの小さな川がある場所足に進めた。

汚れた小袖を脱いで冷たい川に浸す。薄い布地を擦り合わせ、小さい両手を動かした。清んだ水が茶色に濁っていく。濁った水は川下に吸い込まれるように流れていった。弱い力しか入らない小さな手ではいくら洗っても汚れは完璧に落ちない。汚す前の色に戻そうと擦り合わせるが視界が悪いために正確な判断が出来ず、ただひたすらに小袖を洗い続けた。冷たい水にずっと手を浸していたせいか、指先が赤くなり、じんじんと痛んだ。川の流れがすこぶる速く、力が入らないせいで何度か小袖が流されそうになるのを必死に食い止める。
一緒に遊んでくれる友達がいないために、両親が絶対的存在だった。両親が自分の世界の中心で、のっぺらぼうに嫌われることより両親に嫌われることが一番恐ろしかった。嫌われたくないから言われたことは素直に聞いてたし、約束も絶対に守った。ぼやけて何も見えない視界の中で唯一両親だけがのっぺらぼうではなかった。表情は見えないけど脳裏に映る両親には確かに優しい表情があった。
ふと顔を上げると空はいつの間にか橙色に染まっていた。早く両親が待つ家に帰らないといけないが、汚れた小袖の色は変わらない。何一つ好転しない状況にじわ、と目尻に涙が溜まったその時だった。
「ああ、ここにいたのね」
聞き覚えのある声が聞こえて振り返るとそこには見慣れた小袖を着た母が立っていた。探しにきてくれたことを嬉しいと思う反面、目の前にある小袖を見てどうしようかと不安になる。反射的に濡れた自分の背に小袖を隠した。
「帰って来ないから心配したのよ」
何も言えないで黙ったまま俯いていると、母は濡れた小袖を隠していることに気付いたのだろうかしゃがみ込んで視線を合わせた。表情が見えないために母が怒っているかどうかが分からない。何を言われるのだろうか怖くてたまらずに恐怖から逃れようとぎゅ、とかたく目を閉じる。しかし予想とは全く異なり、母は柔らかくて温かい手で冷え切った小さい手を包み込んでくれた。恐る恐る目を開けると、母は優しい声をかけてくれた。
「汚しちゃったのね。でも偉いわ、ちゃんと自分でお洗濯してるもの」
「ごめ、んなさい」
「いいのよ。男の子だもの、遊んで汚れてしまうのは仕方ないわ。それより」
母はそっと腹に何十にもきっちりと巻かれた包帯に手を伸ばす。
「ここは誰かに見られてないわよね?」
「言われたとおり、誰にも見せてないよ」
目が見えない他にもう一つ、身体には欠点があった。包帯によって隠された腹にはまるで何かに貫かれたような傷跡がある。生まれたころから何故かあった。その傷は薄まるどころかどんどん色濃くなっていく。母は何を思ったのか、それを隠すようにときつく言い聞かせた。理由は分からないけど母に嫌われたくなかったからその約束をずっと守り続けてる。
それならいいのわ、と母は呟くと立ち上がって手を差し出した。
「暗くなるから帰りましょう」
首を縦に振り、冷たくかじかんだ手で母の温かい手を強く握りしめた。母の顔は分からないけど、なんとなく優しい笑みを浮かべてるんだろうと思うだけで先程までの辛い気持ちが吹き飛んだ。
「母さん」
「なぁに?」
「なんでもない」
母と手を繋いで帰りながら見た空はいつもと違って少し色鮮やかに見えた気がした。

月がない夜だった。月の無い夜は全てが真っ黒で塗り潰されて、まるで全てを飲み込んでしまうようで怖くて苦手だ。逆に月がある夜は好きだった。月が出てると真っ黒に塗り潰された闇の中に一つだけぼんやりと丸く光る月が言いようのないくらい綺麗で独り占めしたいという衝動にかられる。形しか分からない貧しい視界の中で綺麗だと思うものだった。
縫い物をしている母をずっと見ていたかったが、早く寝なさいという言葉に従って、いつもより早く床につくことにした。おやすみなさいと言って隣の部屋に行き、母に見つからないように自分の身長より少し高い棚を開けて手を入れる。小さい手で物色しているとこつん、と指先に硬いものが当たった。懸命に爪先立ちをして指先に当たった硬いものを手に取る。藤色の絹布に包まれたそれは、丸い小さな鏡だった。珍しい、高価そうな鏡をいつから持っていたか全くわからない。買った訳でもなくもらった訳でもない。ただ気が付いたら持っていた。母は突然現れた鏡を妖の類かと思い、恐れてた。だが鏡を見た瞬間、忘れていた大切な何かがあるような気がして、なんとなくこの鏡を肌身離さず持ってないといけないという気持ちになった。呪術を恐れた母が神社に納めようとしたが、神主が言うには縁起の良い物だということなのでなんとか家に置くことになった。絹布に包まれた自分の顔を写す鏡を懐かしいと思い、ぎゅっと胸にあてる。その時、ふと脳裏にぼんやりとした誰かの後ろ姿が浮かんだ。
「……だれ?」
言葉を発した途端、まるで風船のように後ろ姿は消えた。突然現れた知らない後ろ姿。特に何も考えることなく、大切な鏡を胸にあてて布団に潜り込んだ。

その夜は珍しく眠くならなくて、布団に潜りながら鏡をひたすら見つめていた。何故かこの鏡だけは他と違ってぼやけることなくはっきりと見える。不思議で仕方なかったが縁起の良い物と言われていたために気にしなかった。鏡を愛おしく思い、絹布で丁寧に鏡を拭いたり、時が経つのを忘れてずっと見続けた。母に褒められるより、鏡を見ている時だけが幸せな時間だった。
から、と乾いた木戸が開く音がした。父が帰っていたのだろうか。厠に行くふりをして父を一目見てから眠りに着こうと思っていたその時、静かだった隣の部屋から突然慌ただしくなった。何があったのだろうかと、見つからない程度に木戸を小さく開けてそっと耳を傾けた。
「もう嫌、いつまであんな子を置いとけばいいのよ!」
初めて聞く母の声だった。いつも耳にしている優しい声とは違い、怯えているような、怒りに震えた声。胸に抱えた鏡が落ちかけたほど、思わずびくん、と身体が震えた。
「落ち着け、あともう少ししたらどこかにやればいい」
宥めるような父の落ち着いた声。聞き慣れた声に安心してほっと息をついたその時だった。
「あんな気持ち悪い子、私たちの子供じゃないわ!生まれた時から傷跡があって目が見えないなんておかしいもの!知ってる?私があの子に愛してるという言葉を言ったことがないことを、あの子の名前を一言も言ったことがないのを!」
母の言葉に頭が一瞬にして真っ白になった。急に吐き気がして嗚咽が止まらなくなった。一気に苦しくなって目尻に涙が滲んだ。しゃがみ込んでがんがんと痛みだした頭を押さえてきっと自分のことじゃないと否定するために過去を思い出す。しかし思い返してみれば他の親が子供に言う言葉を言われたことがないし、名前すら呼ばれたことがない。いまだに話し声が聞こえる部屋を恐る恐る覗き見た。あんなに優しかった両親の顔はのっぺらぼうになっていた。握った母の、あんなに温かかった手が急に冷たく感じられた。今まで嘘偽りで固められていて、唯一の居場所だと思っていたのに一瞬にして塵となって消えた。裏切られたと気付いた時、両親が中心だった世界はがらがらと音をたてて崩れていった。ここにいてはいけないと働かない脳が告げる。一番信用していた、大好きだった母に否定されてもう一秒もここにいたくなかった。小さな声でごめんなさいと呟くと、ぽたぽたと鏡に水滴が落ちた。絹布で水滴を拭くと、鏡を懐に入れてのっぺらぼうになった両親に見つからないように部屋を飛び出した。正確には、逃げ出した。外に出てものっぺらぼうが金切り声を発しているのが聞こえてくる。もう聞きたくないと、耳を押さえてぼやけて見えない視界の中を全力で走った。見えない視界のために足が縺れて地面に倒れ込んだ。転んだ拍子に懐から鏡が転がって地面に伏せた。鏡が割れてないか不安になって重い身体を引きずって覗くと、ふと鏡に映った自分の顔が見えた。自分の顔は言いようがないほど酷い顔だった。拭った涙がまた目尻に溜まる。鏡を手に取って倒れ込んだ身体を起こす。ちくん、と痛みを感じる膝を見ると、赤い液体が一筋伝い落ちてるのに気付いた。痛みを感じながら袖で拭うと袖が赤く染まった。ふとに母の言葉が頭を過ぎる。

「汚してはいけないよ」

約束を一途に守り通していた自分が馬鹿馬鹿しくて、言葉に抗うするように何度も袖で赤く滲む膝を強く擦った。伝う液体が止まっても擦ることを止めようとしなかった。小さかった赤い染みがどんどん滲んで広がった。
空からぽつ、と水滴が落ちてきた。数滴だった水滴はだんだんと数を増やしていき、強くなっていった。ざぁざぁと激しい音をたてながら地面を穿つ。水滴は頬を濡らし、小袖を茶色く汚していった。痛む膝を庇うようにしてゆっくりと立ち上がり、危険だから行くなと言われた山道へと足を進めた。

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あきゅろす。
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