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愚者



『マツバくんは、今、幸せ?』


普段ならきっと、二つ返事で頷いた。だって僕は幸せだから。おおよそ人が必要とする最低限のものは持っているし、並々ならない不幸に見舞われている訳でもない。十分、幸せと呼んでいい状態にあるのだから。

しかし現実、僕は頷かなかった。

何故だかは分からない。もしかしたら本能的にそうしたのかもしれない。あれは僕があの子に心配させようとしていたあの状況によく似ていたから。笑っては俯く、あの情けない行いにそっくりだ。

でも、そんなことより今はもっと重大な問題があった。僕はあの時、とんでもないことを言おうとしていたのだ。寂しそうに笑った名前とかち合った視線に、体の奥底に隠していたものが溢れ出そうになった。


『あのね、』


あの続きをあの勢いで言っていたらと思うと、ぞっとする。きっと、…いや確実に彼女を困らせることになっただろうから。

それと同時に、僕の僕自身に対する誤魔化しはもう通用しない。僕が彼女をどう思っているのか。言い訳なんてもう思い付かないんだ。ポケットに入れた時計を撫でる。この時計を買ったのも、本当は引っ越し祝いなんかじゃない。胸が痛かった。知らない振りがどんどん溶けていく。喉が渇く。溶けていく。ぐちゃぐちゃになってしまいそう。知らない振りなんか、していない。していないしていないしていない。それなのに溶けていく。



彼女を好きになってはいけないと、初めから知っていたのに。

彼女はあの子ではないと、xxxxxxxxxx。





溶けていく。
110414




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