知らない人
「おはよう、ございます。」
戸惑ったように彼が零した。呼吸が普通に出来ているのかわからない程に私の心臓は高鳴っている。
『僕は、…、マツバ。』
目の前の彼が本当にあの子──マツバくんなのかは分からない。それでも何故か、そうだそうだと脳が煩く叫んだ。だけど突然、"マツバくん?"とか"あなたは?"とか、そんなことは言えない。自然に聞き出すにはどうしたらいいのだろう。パニックを起こしている私を余所に、彼はもう一度口を開いた。
「この家に、引っ越してきたんですか?」
「あ、はい。そうです。…えっと、ご近所の方?ですか?」
「…いや、僕はよくこの辺りを散歩するんだ。」
そうなんですか。そう言った口の中はカラカラに乾いている。確信した。やはりこの彼は、マツバくんだ。しかし彼は私の顔など知らないだろうし、過去の事を覚えているかも分からない。それに何より、覚えていたとしてもその事を知られて欲しくもなかった。私は開口しようとして、やっぱりやめる。けれど代わりに彼がもう一度口を開いた。
「この家に、昔住んでました?」
どくり。彼の目が私を射ぬく様に見ている。それに緊張して不自然な間が空いてしまうが、何とか私は答えた。
「いいえ。私はエンジュは初めてです。」
そう言うと、マツバくんはがっかりしたようだった。けれど勘違いじゃないかと思う程にそれは一瞬で、ああ覚えていてもその程度なんだなと、恥ずかしくて少し悲しかった。
「ここじゃあ町の端だから色々不便じゃないですか?」
「そうですね。少し。」
嘘。この家は私にとって何の不便も無い。むしろ、この家で心底よかったと思う。けれど、普通に生活するには確かに不便だった。頷くと、マツバくんは少し考えてから"あの…"と控えめに言う。
「僕はマツバといいます。良かったら、名前を聞いてもいいですか?」
私はもう一度頷いて、それから箒を握るじっとりした手を握り直した。
「私は名前。よろしくお願いします。」
100831
何か、これどうしたらいいんだ…
ど、どうしたら…
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