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知らない


ゲン、と名乗った彼。彼はいったい何者なのだろう。けれど怪しい人間でも、素姓の知れない人間でもないらしい。それどころか、私とそれなりに関係の深い人間のようだ。

当初私を引き受けるはずだったトウガンさんと言う人から電話が来て、一切をゲンさんに任せると言った。無責任だとは勿論思わない。何の血縁関係も無いらしいこともそうだし、何より放棄すると言った風でなく、ただ私に良いようにそうしてくれたように思ったからだ。きっとトウガンさんと言う人は優しい人なのだろう。

だけど、実際不安で仕方ない。ゲンさんやトウガンさんが優しいとか信用出来るとか、そういう事以外の問題で。…とやかく言ってもどうしようもないのは理解しているつもりだけれど。

そこでふと、うっかりぼんやりしていた事に気付き、慌てて顔を上げる。ゲンさんを困らせてしまったのではないか。しかしそんな予想に反して、彼もまたぼんやりしていた。


「どうかしました?」

「あ、いや…!」


焦った様子でゲンさんが首を振る。穏やかで大人らしい彼のその様子が何ともおかしい。けれどそれから直ぐにゲンさんは何でもない顔に戻り、少し寂しく感じた。(…寂しい?)


「…私の家に行こうか。」

「え?」


今度は私が焦る。さらりと紡がれた提案、しかしそれは二つ返事で頷けるものではない。

以前借りていた私の部屋がまだ空き部屋のままなので、大家さんがもしよければと言っていたらしい。私の元の家具や荷物もその部屋の近くの借り倉庫にあるとも聞いている。つまりゲンさんに衣食住全て依存する必要も、理由もない。それなのに甘えるのは余りにも礼儀を知らないと言うものだ。

断ろうと私が口を開くより早く、ゲンさんが口を開いた。


「部屋なら一つ余っているし、君が旅に出る時に荷物を少し預かっているからね。」


預けた?疑問符が頭を埋める。だって、おかしい。血の関係も、特別な絆もないのに、"私"が彼に荷物を預けるだなんて。

じゃあ仮におかしくないとするなら、私達の間に何かあったと言う事なのだろうか。

過る想像に痺れた唇を、動かす。


「…私と、ゲンさんは…?」


ゲンさんが立ち止まって振り返った。くるり、視線の糸が絡む。心臓がうるさい。ゲンさんは何も言わない。


緊張に拳を握ると、漸くゲンさんが動く。笑った。


「私達は仲のいい友人だったんだ。」

「そ、そうだったんですか。」


あり得ない想像にどぎまぎした自分が恥ずかしくて、頬が熱くなる。こんなに素敵な人と私が、なんて、よく妄想したものだ。視線を落として恥ずかしさに混乱していると、ふいに視界を腕が遮る。一回り大きな手が私の手を掴んだ。


「!ゲンさ…」

「あの船に乗ろう、もう出航しそうだ。」

「わ、本当!」


繋がれたゲンさんの手に驚くより、船が出てしまう事への焦りが先行し、慌てて小走りになった。

青い背中を追うように、駆ける。何だか、病院で見た夢を思い出した。それを誤魔化そうと、青い背中の向こうに手を振る。


「待って下さい!乗りまっ、わ!」

「!」


小石に躓き、体勢が傾いたけれど、引かれた手によって倒れずにすんだ。


「あ、ありがとうございます!」

「はは、気を付けようね。」

「はい…っ」


また恥ずかしいことをしたと、照れ笑いを浮かべたら、ゲンさんも優しく微笑んだ。


嬉しいはずなのに、苦しい。だってゲンさんは、いつだってそうやって───、




"そうやって"?私は何を思ったのだろう。


分からない思考を放棄して、こちらに呼び掛ける船員さんの方へ再び走りだした。





知らない
(知らない)
(知らない)





(何も。)
110226




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