やり直し
看護師に言われた505号室という字の下に、彼女の名前が荒っぽい字体で書かれた紙が差し込まれている。恐らく病院関係者が書いたんだろう。彼女は丸まった女性らしい字を書く人間だった。付き合う前、しばしば勝手に私の家に上がりこんでは置き手紙を残していたのを思い出す。そういえば私はあれがどうしようもなく嫌で(手紙が鬱陶しいとかではなく。)彼女が来そうな日は家を空けないようにしていた。懐かしい。
そんな事を思いながら扉を叩こうと腕を上げると、既に固く指が結ばれていた。思いの外、緊張しているようだ。指を少し弛めてから扉を叩く。
反応は、無い。
もう一度叩く。反応は、無い。
もう一度。そして同じ。
(まいったな…。)
いないのだろうか?寝ているのだろうか?そのどちらにしても勝手に入る訳にはいかないだろう。まいった。けれどずっとこのまま廊下に立っている訳にもいかないし、例えば看護師を呼んだところで彼らはずんずんと部屋に踏み込むだけだろう。だから、仕方ない、そう結論づけて部屋に踏み入れることにした。
引き戸をそっと開く。さすが病院、扉は全くと言っていいほどに鳴かなかった。白い病室は、四つあるベッドの内一つだけしか使われていないために、更にその白さを主張している。
「……、…。」
唾液を嚥下した。ごくり。耳の奥に響く。
真っ白いベッドに沈む彼女は果たして、眠るように死んでいるのか、死んだように眠っているのか。…勿論、後者だろう。そして私も後者だった。
死んだと思っていた感情が、どっと溢れ出す。彼女に面と向かって終わりを告げられたあの日、どうしてこうならなかったのか不思議な程に。
彼女の頬を撫でる。それから髪を梳く。長かった髪は、肩の辺りまで短くなっていた。どうしようもなく、
どうしようもなく、欲しい。
どうしようもなく、惜しい。
今更になって彼女への執着が込み上げる。今更になってルカリオの言う意味を理解した。
今更になって、あの質問の答えがでた。
「本当の本当に、好きだよ。」
今更。自尊心にまみれた本心を見つけるのは本当に今更だ。あの日ちゃんと彼女と自分に目を向ければよかった。みっともなく縋りつけばよかった。納得いくまで問えばよかった。
もうやり直しはきかない。
「…、…。」
薄く、彼女の目が開く。突然の事に慌てて手を引っ込めた。
「…、あ、の…」
思わず頼りない声が漏れる。狼狽えているのが見え見えだった。それでも寝ぼけているらしい彼女には分からなかったらしい。起き上がり、じっとこちらの目を見る彼女の瞳から、ぼろりと涙が零れる。
「!」
慌ててスーツの袖で拭ってやる。恐がらせてしまったんだろうか?内心とても焦っていた。頭が上手く回らず、気のきいた言葉一つ投げることが出来ない。
「あの、」
代わりに彼女が投げる。
「トウガンさん、ですか?」
ただし、見当違いの方向に。恐らく、初めに連絡が言ったのがトウガンさんだったから、その名前だけ伝えられていたのだろう。それで改めて知る。彼女には記憶が無いのだ。そして思い付いた。
彼女の問いに緩く首を振ってみせる。思い付いた考えは振り落とされなかった。
「どうして、泣いているんだい?」
出来るだけ優しく言う。零れる涙をもう一度、今度は指で拭った。それから考えるように少し間を空ける彼女に、笑む。
やり直しが
きかないなんて
(とうに知っているのに。)
(それでも、)
(愚かに嘘を吐く。)
100912
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