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真選屋の若旦那、総悟は江戸でも有名な変わり者で、西国からやってきた武具職人の一人が事故で死にその娘がたった一人で残されたのを不憫に思い、周囲の反対を押し切り女中奉公として仕えさせたのだという。
それは水晶の色の瞳をした大層気の強いおなごで、名を神楽といった。
また総悟様の気まぐれが始まったか、と周囲はあきれながらに噂したという。

そんな出来事から幾年かの春先のことである。
「神楽ちゃん、ちょっといいかしら」
すっかり屋敷に馴染んだ彼女をそう呼び止めるのは女中頭のお妙である。
神楽は洗い物の手を止め何事かと彼女に向き直った。奉公を初めた時からお妙を実の姉と思い慕ってきた神楽である。
「若旦那の十九の祝いに反物を渡す予定だそうなのだけれど、何色がいいか聞いてもらおうと思ったの。」
わかった、と神楽は2つ返事に頷いた。
変わり者の若旦那は神楽を大層気に入り、よく話し相手をさせたがった。総悟の話し相手は神楽の最も大切な勤めであり、最も好きな時間だった。
総悟の楽しそうに笑う姿やふと真剣な眼差しでこの眼を見つめる姿、戯れに神楽と呼んでみる声色。いけないと思いながら神楽の胸はどきどきと痛いくらい音を鳴らした。

誰にも言うまいと固く胸に誓っているが、神楽は総悟のことを心から慕っているのだった。

「ねぇ神楽ちゃん、」
お妙の声に神楽ははっとそちらを向く。
「何アルか、姉御」
お妙は言いにくそうに言葉を濁して、しかし意を決したように呟いた。
「神楽ちゃん。私はあなたのこと、とてもとても好きよ。好きだから言いたいの。私たちは女中で、あなたは西国の人。若旦那は変わり者なだけなんだから、へんな期待をしてはだめよ」
さあっ、と神楽の血の気が引いた。
もちろんわかってる、そう答えた自分の声はどこかで別の誰かが言ったかのように神楽の耳には届いた。


「なんでぃチャイナ、今日は随分と浮かない顔だねィ」
縁側で猫を撫でていた総悟は神楽が茶菓子の盆を持って現れたのを見やり、不思議そうに首を傾げた。
猫の尻をとんと叩いて膝から下ろす。猫はにゃあ、と恨めしげに一声鳴いて屋敷の庭を走っていった。
「また野良の猫と遊んでたアルか。旦那様は不思議と動物に懐かれなさる」
「総悟と呼べと言ったろィ」
むっと顔をしかめて見せる総悟に神楽は苦笑しか返せない。そんなこと許されるはずがないことは総悟もよくわかっているはずだ。
神楽の苦笑をなんと取ったのか、総悟はそれ以上なにもいわずに茶を受け取った。その湯飲みにはらりと桜の花弁が落ちる。
「あら、すっかり春ネ。本当に気持ちがいい天気アル」
「こうもあったかくちゃ気持ちが緩んでいけねェや。眠くて剣の稽古もままならねぇ」
神楽の呟きに応えながら、総悟は熱そうに茶を啜った。猫舌にはまだ飲みにくい温度である。
総悟はあきらめたように息を吐いて神楽を見やり、それからちょっと驚いたように目を見開いた。

「…チャイナ、お前の髪はこうして陽を透かすと桜色に見えるんだねィ。綺麗なもんでさァ」


それを言うなら旦那様の髪は陽を透かせば金糸のようだと、神楽は言いたくて口に出せず、ただぽっと頬を桜色に染めた。

「また戯れにそんなことを」

いつもこうして心を乱す。ひどいお人だ。



「戯れじゃねェよ、」

その時風が吹いて音もなく桜が舞った。

なんとなく。
なんとなく空気が変わるような、そんな予感がした。


「俺は世間から変わり者だとか気まぐれだとか、そんな風に言われてるけど、実際そんなこたァねえんでさァ。お前を引き受けたこと、俺が変わり者だからでも気まぐれでも何でもねェ。野暮と笑われたっていい。みっともないことに、俺ァ死に物狂いでさ」

神楽はうつむいた顔を上げられない。

「……俺だって、自分の立場くらい知ってらァ。いけねぇってわかってんだ。でも神楽、嘘だって戯れだっていい。口が滑ったんで構わねぇから、俺と、」

総悟はそれ以上を言葉にすることをためらった。
神楽は口を開いて何か言おうとするのだけれど、言葉は喉元を出かかって離れず、何も言えない代わりにと、おそるおそる総悟の手の甲に指先を触れた。
総悟はそれを力強く絡めとる。

花弁がぽたりと小池に落ちた。



神楽の唇を滑るのは、ただただ涙ばかりであった。












あきゅろす。
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