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返信せずに、携帯をソファの隅に放り投げた。
いつも、そうだ。
誰かに抱かれたり、誰かを抱いたりした後は、何をする気にもなれない。
俺は、何を思うでもなく、ただぼおっと部屋の中を見る。

1人で住むには広すぎる家。
広いリビングとダイニング、ふかふかの革のソファ、最新の大型の薄いテレビ。
広い寝室、柔らかな冷たいベッド、広いバスルーム、高級そうな大理石の床。
必要なものは十分すぎるほどに全部あるはずのここは、孤独な場所だ。
誰にも求められず、誰を求めることも許されないひとり、の、せかい。

部屋の空気は、冬だからかひんやりと冷えていて、それが俺の中の空虚な気持ちだとか虚無感だとかを駆り立てた。


「……っ」


気分が、悪い。
胃液が上がってくる馴染みのある感覚に、俺は口元を押さえながら、洗面所に駆け込んだ。
蛇口を捻って水を流して、洗面台に顔を埋めた。


「ぅ……っくっ……」


咳込みながら、胃におさまっていた内容物を吐き出す。
ジャージャーと流れる水の音が、耳障りだった。
息苦しさに、涙が溢れる。


(くる、しい……)


心に空いた隙間を埋めるように、時折襲ってくる空虚な気持ちだとか虚無感だとかから逃げるように。
いつも俺は、学校では明るいいつも笑顔の人気者を演じ、学校の外では、名前しか知らない誰かと寝るようになった。

明るい幸せな自分を演じることに疑問はなかった。
寝る相手なんか、女でも男でも、どうでもよかった。誰でもよかった。
ただ、一瞬でもいい、誰かに俺を、俺だけを、見てほしかった。


「……っもち、わりィ……」


気持ち悪い、きもちわるい、きもち、わるい。
明るい幸せな自分を演じる自分も、誰彼構わず寝る自分も。そしてこうして、そんな自分への嫌悪感で、嘔吐する自分も。
全部全部全部、きもちわるくて。
全部全部全部、きえてしまえば、いいのに。
そう心底思うのに、やめることなんか、出来なくて。


「は……あ、……」


しばらく嘔吐していると、吐き出すものがなくなったのか、胃液しか出てこなくなってしまった。
不快感も倦怠感も、消えていないのに。
俺は口を濯いで、ついでに顔を洗った。
タオルで顔を拭いて、そのまま顔を上げれば、鏡に映る自分と目があう。
その表情は、ひどく、厭世的で。


「……ひっでー顔」


昼間、この顔で幸せそうに笑って。
さっきまで、この顔で男に抱かれてヨがってたのかと思うと、笑えた。


「っつ……」


少しよくなった吐き気がまた込み上げてきて、俺は口を押さえる。
ぎゅっと目を閉じて深呼吸していると、吐き気は治まった。
何かを吐けるならいいけど、胃液だけしか吐けない嘔吐は、ただただ辛いから。

しばらく深呼吸して呼吸を落ち着けてから、俺は、ゆっくりと閉じていた目を開けた。
その視界の端に、映ったのは。


「……、……」


鈍く光る、それ。
洗面台の隅に、それはあった。
それを手にとって、ぼおっと見る。
光を反射するそれは、いつものことながら、俺の目にはとてもきれいなものに見えた。

少しの間、その鈍い光を見つめた後、俺は、左腕の袖を捲し上げた。
前腕が露になるくらいまで。
そして、迷うことなく、それを手首に押し付ける。
ひんやりとした感覚が、倦怠感を帯びた体に、心地よかった。
そのまま、それを持った右手をゆっくり右に引いていく。


「っ、ぃ……ってー……」


ぴりっとした鋭い痛みが断続的に続き、もやのかかっていた俺の頭を覚醒させていった。
カミソリが通ったところから、赤い玉のような血が、溢れ落ちる。
3センチくらいの傷を作り終えた時には、玉のようだった血は、水に変わっていた。


「……血……」


血、だ。真っ赤な血。おれの、血。
手首を伝って、あたたかい血が流れていく。
流れ落ちた血は、流れ続けている水に薄くなりながらも、白い洗面台を汚し、排水溝へと消えていく。
ぼおっとそれを見続けていると、手首の痛みがだんだん麻痺していくのを感じた。思わず、左手首の傷を撫でる。


(……全部、流れりゃいいのに、)


全部全部全部。
今までの俺も、今の俺も、これからの俺も、記憶も感情も何もかも全部。
そうすればきっと、俺は。


『ワカツキ』
「……」


蛇口を捻って、水を止めた。
血はまだ流れ続け、白を汚す。
俺は最後にその様を目に刻みつけ、洗面所を後にした。
そして、電気も消さず、携帯も持たず、身一つで家を出た。


玄関を出たところで見た夜の闇は、いつの間にか降りだしていた雨に、切り裂かれていた。

























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