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05



海の中へと、一歩、また一歩と、入っていく。跳ねるしぶきが、濡れて足に纏わりつくジーンズが、鬱陶しい。押し寄せる波が行く手を阻んでいるようで、礼史は波を蹴散らすように、足取りを強くした。一層大きく跳ね上がったしぶきが少し、頬に届く。どこまでいきたいのか、自分でもわからない。でも、どこかにいってしまいたかった。
ショウさん。ショウさん。ショウさん。何度もその名を呼んだのは、海のどこかにまだ、あの日のままの彼がいるような気がしたからだ。それが声に出ていたか出せなかったかは、わからない。それでも、何度も呼んだ。けれど、彼の姿は、見つからない。
ここじゃない、ここでもない。それなら、もっととおく、もっとふかく。そうなにかに急かされて焦った足が、ふいに足元の砂と一緒に、波にさらわれた。
「っ!!」
バランスを崩して、体が前方へと倒れる。反射的に膝と手をついて、体を支えた。ばしゃんと一段と激しく上がった水飛沫が、顔にかかる。礼史の体の下から、また、波が逃げていく。透明な海水の中、礼史は自分の手の下の砂が、さらさらとさらわれていくのを見た。それを見て、なぜだかぞっとして、勢いよく腕全体で、海底の砂をかき集める。なんとかそれをひきとめたかった。なくしたくなかった。顔だけでなく髪まで、跳ね上がった海水が濡らしたけれど、引き留められるなら、そんなことは構わなかった。けれど、砂は水の中に舞い上がって、海水を濁らせて。結局、礼史の腕の中に留まることはない。そしてまた、どこか遠くにいってしまった。
『……なにも、残らねえなあ……』
彼と、同じように。
「……っ……」
見ていられなかった。どこかに消えていってしまう姿なんて。引き留められないこんな、腕なんて。座り込んだまま上体だけを起こして、目を背ける。でも力の抜けた体はなかなか言うことを聞いてくれない。やっとの思いで体を起こした瞬間、思わず、目を閉じた。視界を埋める光が強くて眩しくて、目なんて、開けていられなかった。何度か瞬きを繰り返して、慣れた目に、朝日が降り注いで煌めく海が、映る。あの人が「目が焼かれそうだ」と悲しげに眼を反らした、あの時と、同じ。あの時頭の悪いオレには、「目が焼かれる」というその言葉の意味さえ、分からなかった。髪を顔を濡らした海水が、一つまた一つと、滴になって頬を伝って落ちていく。その一つが唇へと流れて、ぼんやりと、それを 涙の味だと思った。思ったら、どうしてだろう、もう、耐えきれなかった。涙が一気に、溢れだす。
ああ、今になって、ようやく、わかった。わかってしまった。
「目を焼かれる」って、こういうことだったんだ……。
「…………っああああああああ…………っ」
みっともなく震えた、言葉にさえならなかった声が、腹の底から湧き上って海に沈んでいく。涙が何度も目から零れて、思わず、空を見上げた。こめかみが濡れていく。それでも、海は、見たくなかった。苦しくてたまらなくて、あの人のことしか、考えられない。
あの人は、本当に気分屋でマイペースでわがままでプライドが高くて警戒心が強くて。目つきも口も悪くて手も足もすぐ出て。かと思えば無防備に寄ってきたり乱暴に頭を撫でてきたり。それでも、こちらから触れようと少しでも動けば、あっという間に離れていってしまう。まるで傷付いたネコのような、そんな人だった。そんなあの人が、おれはあの頃、ずっと……。
『どうしておまえ、おれのこと、さらったの』
だってもうあれ以上、誰にも傷付けられたくなかった。傷付いてほしくなかった。あの人が深い傷を負ってること、今思えばなんとなくだけど、おれは気付いていたから。だからあの日、おれは、あの人をさらおうとして。でも、さらえなくて、あの人は、死んでしまった。
『ぼうやが無事にチームを抜けられたのは、あいつが交換条件にぼうやに手出さねえことを出したからだぜ』
おれを、助けて?
「ショウ、さ、」
涙が、止まらなかった。あの人があの日、「目が焼かれそうだ」と言って目を伏せた海。その光がただ悲しい。どんな光でも慣れてしまえば、目を焼かれることなんて、ないのに。それを知ってほしかった。きれいなもの、明るいもの、まぶしいもの。ぜんぶから目を背けて悲しく笑ったあの人。そうじゃない、おれはあなたに幸せそうに笑ってほしかった。好きだった。そばにいたかった。傷付けられたくなかった。好きだった。なくしたくなかった。
『礼史』
ただ、好きだった。それだけだった。
『礼史』
ねえショウさん。どうしてあなたはあんなに悲しい目をしていたの。どうして誰も寄せ付けなかったの。どうして「家族を大切にしろ」なんて言ったあなたは親を殺したの。どうしておれと逃げてくれなかったの。どうしておれを助けたの。どうしてあの夜名前を教えてくれたの。どうしてあの夜、名前を呼んだおれに、あんな顔で笑ったの――。
聞きたいことだらけだった。なのにおれは、そんな自分の気持ちにも気が付かずに、何一つあの人に聞かないままだった。今となっては、もう、聞けない。好きだという簡単なはずの気持ちにも気が付けずに、伝えることもなく、失くしてしまった。「目を焼かれそうだ」と言った、その意味を、おれは知ってしまった。







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あきゅろす。
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