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あの日、なんやかんやでタクシーはいつの間にか最寄り駅に着いていて、着いてくるなと言っているのにリクは着いてきて、まいてやろうと遠回りをして走り回ったのに、家の前に着けばリクがそこで待っていた。
当然のように家に上がってこようとするリクと口論になり、隣人の少し強面(おそらくヤクザの構成員)の男に「うるせぇよ夜中だぞてめぇら」と低くどやされ、仕方なく家に上げた(正直怖かった)。

翌日から、毎日再三出て行けと言ったのだが、聞く耳もたず。それどころか美味しい食事と完璧にこなされた家事に、逆に心が絆されていって。
なんとなく、毒気を抜かれるというか、出て行けと言い出しにくい気持ちになってしまいーー


「心サン、風呂沸いたよ」


今に至る、というわけである。


「……あー、いいよ、お前先に入って」
「え? でも」
「いつもいつも俺が先なのも、嫌なんだよ。だから先入れ」
「心サンのために沸かしたのにー……あっ、じゃあ一緒に入る!?」
「さ、き、に、は、い、れ」
「……はい……」


気まぐれで先に入るようすすめれば、本当に嬉しそうにする。
よくわからないことを言ってはしゃぎ、冷たく返せばその時はしゅんと大人しくなるくせに、すぐに「心サンてほんとツンデレー」と言いながらも上機嫌で浴室へ向かう。
よくわかんねえ奴。バスタオルと着替え(リクの服やスウェットは、身長がほとんど変わらない心のものを使っている)を持って浴室に入っていったその背中を横目で見送って、ふう、とため息を吐いた。


(……俺も、どうかしてる)


神様見習い、だと自ら名乗り、心を幸せにするためにここに来たという。それ以上の情報は何も話さない、胡散臭すぎるにも程がある男を、一か月も家に置いたままにしているなんて。
挙げ句、その男が作った食事を食べ、その男が沸かした風呂に入り、その男が干した布団で寝る。他人と深く関わるのが苦手で警戒心が強い心には、あり得ないことだ。
でも、と思う。


(鬱陶しいことに変わりはないけど、あいつといると、なんだか、落ち着く)


胸にあいていた穴が埋まるような、足に重りがついたような。そんな感覚。
なんなんだよ、と毒づきながら、心は腰かけていたソファにごろんと横になった。リクのことは、心にはよくわからない。


あの日、荒れ果てた毎日を送りながら心身ともに疲れ果てた心の前に、リクは現れた。
そして、「幸せにする」と一方的に約束してきた。
リクの言うその、幸せ、が一体なんなのか。最近、心はそんなことばかりを考える。
どうあることが幸せで、リクは心をどんな風に幸せにするつもりなのか。


(あいつが来て、変わったこと)


もぞもぞと狭いソファの上で体を動かして、落ち着く場所を探す。なかなか見つからずに、何度も動く。その間も、思考はリクへ。


(朝目覚ましじゃなくて人の声で起きるようになった。朝飯がトーストじゃなくなった。家帰ってくると電気がついてる。夕飯が作ってあって、二人分。そんでおやすみで、寝る。きっと明日からはキャットフードを買って帰るようになる……)


やっと落ち着く場所を見つけて、息をつく。なんだか、眠くなってきた。
目を閉じると、浴室からはシャワーの音と、少し音程の外れたリクの鼻歌。なぜだか、心地よかった。


(……そういや、最近少し残業減ったな。みんな手伝ってくれるようにもなった。嫌がらせしてくるのも、今はもう課長と小佐野さんだけだ。三好さんは、毎日コーヒー淹れてくれるし)


リクが家に来てから、ゆっくりと訪れてきた変化。
その変化が、どうして訪れたのか。心には、わからない。
リクが魔法か何かを使った、なんてことはありえない。心はそういった類のものを信じていない(もちろん、神様だとか神様見習いだとかいうものも)。
なんにせよ、その変化によって、心の生活は少しずつ穏やかなものに変わっていきつつある。


(シアワセ、て、……こういうことなのか?)


あの日、心を少しでも幸せにすると、リクは笑った。誰よりも幸せそうな顔で。
これがその幸せなのだと言われればそうな気がしなくもないが、よく、わからない。幸せについてこんなに真剣に考える日が来るとは、思わなかった。


(……あいつは、どうして俺んとこに来たんだろう)


何度聞いても、リクは答えなかった。笑って、「心サンを幸せにするためだよ」としか言わない。
……聞きたいのは、そんな謎かけのような曖昧なものじゃあないのに。


(あー、もーわかんねえな)


リクのこと、自分のこと。わからないことだらけだ。
風呂場からは、相変わらず時折裏返ったようにいきなり高くなるリクの鼻歌が聞こえている。


(てか、ねみいなー)


いいや、あいつ出てくるまで、寝てよう。
あれこれ考えんの、めんどくせえし。
多分あいつ、起してくれるし。
うん。
そううつらうつらと揺れる思考の中で結論付けて、心の意識は急速に薄れた。






『――、……』


急速に薄れた意識が辿り着いた先。
その夢の中で、誰かが泣いている。
それを、どこか少し離れた場所から、心はただ見つめていた。


『目、開けてくれよ……っお願、』


震えた声が、何度も繰り返す。うずくまった背中が、ひどく小さく見えた。
なぜだかその声に、ひどく胸は締め付けられる。
泣かないでくれ。そう言いたいのに、声は出ない。


『お願い、だから……起きて、……』


涙でぬれた頬を拭ってやりたいのに、体が一切動かない。息苦しい。
その泣いてる彼の顔は、見えなかった。
(お前は――だれ、)
急速に、世界が黒く塗りつぶされていく。姿が、掻き消されていく。


(待って、)
(待ってくれ、まだ、)
(まだ、言えていないことが――)


そう叫んで手を伸ばそうとするのに、やっぱり体は動かなかった。
遠ざかっていく中で、彼の嗚咽は、やむことはなく。


『こころ』


黒く染まる世界の中で、その声がひどく大切そうに、一文字ずつ――自分を、呼んだ。






「こころさん、起きて」


薄れていた意識をわずかに引き上げて、突然、今度は誰かの優しい声が、頭の中に入ってくる。
柔らかい声。優しい声。慈しむような、そんな声。
どこかで、聞いたことがある。思いだせない。


「こんなとこで寝たら風邪ひいちゃうよ、こころさん」


本当に起そうとしているにはあまりに静かな声だった。
肩を揺する手さえも、あまりに優しい。まるで、このまま寝てしまえと、そう促しているように。


(何か今――一瞬、夢を、見ていたような……)


そこまでまどろみの中考えて、思いだせそうになくてとにかく眠くて、考えるのをやめた。
意味のないうなり声をあげて、また体を動かす。落ち着く。
また襲ってきたあまりに強烈な眠気にあらがえず、一瞬覚醒した意識も、すぐにまたゆっくりと、まどろみの中へ沈んでいく。


「……仕事は? 持ち帰ってきてないの?」


優しい声は、聞く。


「んー……最近、なんか残業減って……周り、も、手伝って、くれ……」
「……そっか、良かったね、じゃあもう寝な」


「仕事のことだけには反応するなぁ」と、その優しい声が、小さく笑っている。瞼は上がらない。
それでも、その声と、髪をそっと撫でる手の熱さが、誰のものなのか。まどろみの中でもわかってしまって、目の奥が熱くなる。
俺はこの声をこの手を、知っている。でもこれが誰なのか、俺は知らない。
突然なぜだか、目の奥が燃えるように熱くなった。ついで、それと同じ熱さが、こめかみへと伝い、髪を濡らす。それなのに、意識は半分どこか遠くに。戻って、来ない。
目を、開けなくちゃ。そう思うのに、どうしても。


「……、心サン」


目元を、その誰かの指先が優しく宥めるように、拭う。
そして、何かを隠すようにふわっと薄い暖かい覆いが体にかけられ、それを感じたのを最後に、心の意識は深くへ落ちていった。


「おやすみ、心サン」


それでもまどろむ意識の中、その優しい声が自分を呼ぶのを、何度も捕まえた。
































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あきゅろす。
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