存在と無存在のハザマ
長いとか短いとかじゃない――5年後
隣に座る多田が、ビール瓶をこちらに傾けてきた。僕は、慌てて、グラスを持ち上げた。
小一時間前、多田は、ぶらりとスーツ姿のまま、研究室に居残る僕を訪ねてきた。新人商社マンの彼は、いまだ休日には、母校の大学のバスケ部に顔を出し、そのついでに、僕が半ば住処にしている量子力学研究室に立ち寄る。今日は珍しく仕事帰りのようだ。
ソファに腰を下ろし学会誌を手に取る彼は、僕の作業が終えるまで、帰りそうにない。表面上は、いつもの快活さを保つものの、どこかしら、険がある。
マリッジブルーかな……。
僕は作業を終わらせつつ、来月、新郎になるはずの多田を横目に見た。
「いつものラーメン屋にする?」
駅までの道のりにあるラーメン屋。安いし、味もいいが、なぜか、いつも、ジャズがかかっている。
「敏さんは、何で、彼女作らねーの?」
カウンターの隅、多田は、結婚を祝う僕の言葉を故意に遮り、ビール瓶を傾けてくる。
「は……?」
突飛なことを尋ねてくる。
「見かけによらず、スケベなくせに、特定の彼女いたことねーでしょ、どうしてスか?」
不意に、脳裏に浮かぶ優しい眼差しがある。
胸に痛みが突き刺す。
「それって、自分の幸せ、妬んで欲しいのか?」
「てか、俺、結婚、やめるし」
見ると、多田は、既に二本目のビールを自分のコップに注いでいた。
飲むペースが早い。
「彼女と何かあったのか?」
「彼女は関係ない」
「一番の関係者だと思うが」
多田は、肩をすくめると、ビールを煽った。俯き加減の顔つきが陰っている。
僕が麺を啜る間、多田のコップが何度も空になる。
「あ、これ、あんときの曲じゃね?」
多田の顔つきは、不意に明るくなっていた。酔いが回ってきたようだ。
弱みなど見せたことのない男が、まさか彼女の愚痴をこぼしにきたわけではなさそうだが。
僕も、リズミカルな音色に耳をすましたが、生憎、僕はジャズに詳しくないし、曲に覚えもない。
「マンハッタンのライブハウスで聴いた曲、覚えてねー?お前、ずっと寝てたしな。ほら、でかいシアターみたいな場所に連れて行かれてさ、中等部の修学旅行のとき。俺、DVD買ったから覚えてる……」
多田は、自分の間違いに気づいて、口を閉じた。
「……何でだろ。いつも、敏さんとヒデのイメージが重なって仕様がない……」
多田は、薄ら赤くなった顔に苦笑いを浮かべる。
多田の記憶の中のヒデは、ときどき現在の僕に繋がっている。僕自身、二人分の人生を生きている気がしているから、責める気などない。
その名を耳にしてみれば、胸に突き刺す痛みがひどくなって、ぶり返す。
彼を失って5年。僕は、いまだ迷宮にさまよっているのかもしれない。
彼は優しい笑みを僕に残したまま。
僕は彼に何も返してないまま。
心の隅に、大きな宿題が残っていて、前に進めない。大学を卒業しても、まだずっと、研究室に残っているのは、そのためかもしれない。
「結婚なんて、できない……」
多田は、呂律の回らない舌で、呟く。
「彼女をさんざん待たせておいて、捨てるつもりか?」
「ちげーよ。つうか、俺より、勉強できて、俺より、バスケできて、何もかも、あいつに負けたままが悔しい。……敏さんなら、わかるだろ?」
かなり酔いが回った多田は、コップを乱暴にテーブルに置いた。
「何であいつ消えやがったんだ……」
呟くと、多田はテーブルに突っ伏した。
多田もまた、友人を喪失した苦しみを消化出来ていないのか。
「お前、きちんと、幸せになれ。遠慮されてもヒデは喜ばない」
そんなセリフを吐いたが、どこか虚しいだけだった。
そんなのわかってる、何万回も僕自身、胸に繰り返してきた。
多田は、突っ伏したまま呟いている。
「俺より、モテて、俺より、頭も良くて、顔も良くて、俺より、必死に生きてたあいつなのに。少しでも、追い越してからじゃねーと、先へは進めねえ……」
多田の気持ちがよくわかった。黙り込むしかなかった。
彼を置き去りに前に進みたくない。
誰より、ヒデが生き残るべきではなかったか。彼が死んだのに、どうして、世界は普通に回っていくのか。不条理さがたまらなく悔しい。
ヒデ……。
きみはまだ僕の中に生々しく残り消えない。
ヒデを失ってから、僕は、ただただ生き延びてきただけだった。ヒデと交わした一つの約束だけが僕の支えだった。迷宮に倒れ込みそうになりながら、何とか生き延びてきただけだ……。
多田の肩が揺れている。酔っ払いのくせに、隠れて泣く。
約束は守るよ、懸命に生きるよ、でも、きみのそばにいてもいいだろ?
心をきみのそばにおいたままでいいだろ?
僕は、隠れて泣く多田の傍らで、ビール瓶を持ち上げたが、空だった。
店主のおやじさんがカウンターのなかから、はげた頭をにょきっと出した。面倒臭そうに、冷えたビール瓶をゴトリと置いた。
「バカだねィ。お前らは、一生かかっても、あの子には追いつけねぇ」
おやじさんは、ネギを切り刻む。
多田や僕の気持ちまで切り刻むつもりなのか。おやじさんだって、彼の訃報を知り、かなり取り乱したというではないか。
誰しも黙り込み、ネギを切り刻む音だけ響く。
多田はいつの間にか、頬をカウンターにつけて、涙や鼻水を垂らして、何か小さくぼやきながら、眠っていた。
「長いとか短いとかじゃない。そうだね、お前らが、80歳になった頃にやっと同じぐれェさ。あの子においつこうなんざ、50年は、早いね。さっさと結婚しちまえばいい。人生、長いとか短いとかじゃない」
おやじさんは呟いた。カウンターの中から咳払いがした。腕で、顔を拭ったのは、汗のためか涙のためか。
おやじさんが呼んだタクシーに多田を押し込んだ。
目を開けた酔っ払いは、いきなり、喜悦の笑みを浮かべて肩を組んできた。
「ヒデ、この野郎、やっぱり、生きてやがったな。なかなか帰ってこないから、心配したぜ。で、どうだった、アメリカは」
多田は、完全に僕をヒデと混同している。
「まあまあだ」
僕が答えると、多田は、声を上げて笑った。
「ぎゃはは、やっぱ、お前がいなきゃ、つまんねー。死んでも死なねー奴だよ、お前は」
「死んだって、いいだろ?どうせ、お前は一生かかっても、俺に追いつけない。人生、長いとか短いとかじゃない」
「は?何?もう一生分生きたから、いいとでもいうのか?相変わらず、負けん気だな。やっぱ、ヒデはヒデだな……」
多田はイビキを立て始めた。
翌朝、多田から、昨日は悪かった、と短いメールがあった。
数週間後、多田は結婚した。新郎の彼は、目が合うと、少しはにかんだ。
ありがとう、と、微笑む彼は、不意に天をふり仰ぐ。
絶対に負けたままではいないからな……
きっと、彼は親友に、そう告げているに違いない。
生き急ぎ、消えた、親友。一生、心に生き続けるライバルに。
20100317
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