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泣きたかった



 透き通った淡い蒼。薄く棚引く白い雲。その下に広がる空座の町並み。
 それが、彼の書いたものだった。
 頭が良く、運動もできる彼はどうやら絵のセンスもあるらしく、それは僅かな期間ではあるが美術室に飾られている。勿論他のクラスの生徒の絵も飾られてはいるが、たつきの目を引いたのは、石田雨竜のそれであった。
 紙の大半を埋める蒼は、全てがぼんやりと霞がかったように淡く、優しい。けれどそれは、目を離した隙にいつの間にかなくなってしまうような、そんな儚さを秘めている。
 たつきはその色を初めて見たとき、彼らしいとも思ったし、彼らしくないとも思った。いつもきっちりとしている彼とその色は結びつかなかったのだ。けれども同時に、たつきが知っている誰よりも似合っているような気もした。
「有沢さん?」
 ぼんやりと雨竜の絵を――正確に言えば彼の描いた蒼を――見ていると、不意に名前を呼ばれた。振り向くと、そこには声の主であり、ついさっきまでたつきが見ていた絵を描いた本人が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「みんな、もう教室に戻っちゃうよ」
 長い間動かなかったたつきを見かねて声をかけたらしい雨竜は、確かに淡い優しさを持ち合わせている。誰にでも気付かれるというわけではないだろうそれは、今のたつきには酷く心地よいものだった。
「ねえ、この絵だけどさ、どこから見た風景なの?」
 たつきが雨竜の絵に視線を戻しながら問うと、雨竜もまたその視線を辿るように自分の絵を見つめる。
「空座総合病院の屋上だよ。誰でも入れるようになっているから、気に入ったなら行ってみるといいんじゃないかな」
 何故そんな所の風景を、と一瞬思ったが、そういえば彼は病院の院長の息子であったことを思い出す。
「それなら今度、あんたが連れて行ってよ」
「え?」
 たつきの言葉に、雨竜は驚いたような戸惑ったような表情を浮かべた。特別親しくもない、言うなれば友達の友達、といった関係の自分に突然そんなことを言われれば、そうなるのも無理ないだろう。
 けれどたつきは、雨竜と眺めて見たかったのだ。彼女が惹かれたのはこの風景ではなく、彼が描いた蒼だったのだから。
「……ごめん。ここにはもう、行かないって決めたから」
 僅かな沈黙を破ったのは、雨竜の声だった。何処か痛みを堪えたような声に、たつきは思わず彼を見る。雨竜は時折見せるような薄い微笑みを口元に浮かべていた。
「この町並みも、ほとんどは前に見たものを思い出しながら同じような角度の建物から描いたものだしね」
「そう、なんだ」
 いつもと同じような声音に戻った雨竜は、今度はどこか苦笑染みた表情で自分の描いたそれを見上げている。
「だからあの屋上に行っても、もうこんな風には見えないかもしれない」
 そう言われて、たつきはようやく気が付いた。
 この絵は風景画なんかではなかったのだ。彼が、石田雨竜が、大切に仕舞ってきた思い出の欠片。大事にしてきた宝物の一つ。
 霞がかったように淡く、優しく、儚いのは、つまりそういうことなのだろう。
「そんな大事なものをこんなところに提出して、よかったの」
 雨竜はたつきの問いに一瞬目を丸くしたけれど、やっぱり優しい微笑みを口元に浮かべるだけだった。
「この風景を、ようやくこんな風に思い出せるようになったって、誰かに見てほしかったのかもしれない」
 なんでもないことのように言う雨竜の声は、たつきの耳に優しく馴染んでいく。
 だからたつきがそれに気付いたのは、その日から随分と時間が経ってからのことだった。



 優しい笑みで、いつもの声音で。
 彼はただ、泣きたかっただけなのだ。



end

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あきゅろす。
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