幸せの在処
太陽は、すでに半分ほど沈みかけていた。全てを橙色に染めるそれは、同じ色の髪を持つ酷く優しい男を思い起こさせる。彼を見て太陽を思い出すのではなく、太陽を見て彼を想うようになったのはいつからだっただろうか。見詰め続けるには眩しすぎる光を眺めながら、雨竜は考える。きっと、答えが出ないくらいにずっと前のことだ。
買い物帰りの雨竜は眩しげに瞳を細めると、頭に浮かんできた男を想って小さく顔を綻ばせた。
それからしばらくすると雨竜は太陽から視線を外し、優しい気持ちのまま歩き出す。
橙色の頭が見えたのは、それから幾らも経たない頃だった。道の真ん中で立ち止っているその男は、どうやら誰かと口論をしているらしい。けれどその顔には優しい色が浮かんでおり、それがじゃれ合い程度のものだということはすぐにわかった。
歩みを進めると、小柄な身体で一護と張り合うように言い合っている華奢な少女の姿が見えてくる。緩やかに吹き抜ける風に黒い髪を躍らせているのは、間違いなく尸魂界で別れたはずの朽木ルキアだった。
遠慮することなく言い合う二人の姿はまるで恋人たちが痴話喧嘩をしているようで、見ているだけで微笑ましくなる。
雨竜は足を止めしばらくその光景を眺めると、二人に気付かれぬよう人気のない横道へ入って行った。
微笑ましい気持ちだけのままでいられたならどんなによかっただろうと、泣きたいような気持ちで雨竜は思う。
二人の間に強い絆があることはよく知っていた。ルキアが一護にとって世界を変えてくれた大事な人であることも、痛いほどに知っていた。
けれど実際にそれを見せつけられると、一護の隣に立ち続ける彼女が羨ましくて、どう足掻いてもルキアのように在れない自分が情けなくて、そんな風に思ってしまう自分が嫌になる。
それでも一護が好きで、だから差し伸べてくれる彼の手を離したくなくて。その手を取るべきなのは自分なんかじゃないとわかっているのに、彼の優しさにみっともなく縋ってしまう。泣きたいくらいに、どうしようもならなかった。
いつかその手を離さなければならない日が来ることは、よくわかっている。一護の優しさに甘えて先延ばしにしていたが、今がそのいつかなのかもしれない。
雨竜は手にしていた買い物袋を痛いくらいに握りしめる。
それでも一護を好きだと思ってしまう自分が、いっそ滑稽なほど可笑しかった。
雨竜に話があると教室から連れ出されたのは、授業が終わってすぐのことだ。新雪よりも白い肌は青を通り越して土気色になっていたし、表情は緊張からなのか酷く強張っていた。強く握りしめすぎて白くなっていた拳は震えていたかもしれない。
こんなにわかりやすい彼の異常にどうして今まで気が付かなかったのかと、一護は自分を酷く責める。同時に、こうなるまで何も言ってくれなかった雨竜に今度こそ失望した。
雨竜は、いつだって一人で立っていた。いくら辛くても、苦しくても、頼ってくれたことなど一度もない。ましてや弱みを見せることなんてありえなかった。
初めのうちはそれが石田雨竜の在り方なのだと納得していた。そして、いつか雨竜が心を開いてくれるまで焦らず待とうと思っていたのだ。
けれど、どれだけ傍にいても、どれだけ歩み寄っても、雨竜は本心を見せてくれない。
そんなに自分は頼りないのかと、顔色の悪い雨竜の前で思わず一護は自嘲した。
「丁度よかった。俺もおまえに話があったんだよ」
生温い風が吹き抜ける屋上で雨竜と向かい合いながら、中々口火を切らない彼の代わりに一護は投げやりな気分で口を開いた。何処か怯えたような様子で視線を彷徨わせているその仕草さえ、今はどうしてか癇に障る。
どうせ初めからそんなに好かれていないのだ。もうどうにでもなれと、一護は苛立ちを露わにした。
「俺から話してもいいか?」
一瞬だけ目を伏せた雨竜は、何も言わずに一度だけ頷いて見せる。雨竜の瞳に走った緊張に気付かなかったわけではないが、一護は構わず言葉を続けた。
「やっぱり、おまえみたいな何考えてんだかわかんねえ男とは付き合えない」
傷付けばいいと、思った。いつだってポーカーフェイスで何を考えているのかわからない雨竜が自分の言葉で傷付く所を、一護は見てみたかった。現に、あえて思ってもいない酷い言葉を雨竜に投げつけた。
たとえ、雨竜が自分なんかの言葉で傷付くわけがないと、痛いくらいにわかっていたとしても、そうせずにはいられなかったのだ。
一護は雨竜の顔を見ないように瞳を伏せる。もし見てしまったら、この後に続くはずの言葉が言えなくなってしまう。顔を見てしまったら離れたくないと思うほどには、どんなに信用されなくても、どんなに壁を作られていても、一護はやっぱり雨竜のことが好きなのだ。
「……俺たち、別れようぜ」
低く呟くその声は、緩く吹いている風が確かに雨竜の耳へ届けたようだった。
きっと、そうだねといつものように、なんの執着もなく、雨竜はこの関係を終わらせるのだろう。或いは、こっちこそ御免だと吐き捨てられるかもしれない。
けれど、そう仕向けたのは自分だ。どんなことを言われても、もうこの手を離してあげなければいけない。
そう思うのに、雨竜は何も言ってくれなかった。いつものような短く素っ気ない相槌すらない。
さすがに訝しく思った一護は、自分の爪先に向けていた視線を上げる。けれど雨竜は俯いていて、表情がわからなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。やがて雨竜は風に掻き消されてしまいそうなほど小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……わかった」
その言葉は、いつものようになんの感情も籠められていなかった。やっぱり想像通りだと、一護は無意識のうちに自嘲の笑みを浮かべる。
そのまま立ち去ろうとした一護の耳に聞こえてきたのは、何かを諦めたような、凪いだ海のように穏やかな雨竜の声だった。
「……わかってたんだ」
思わず足を止め雨竜を見ると、俯いたままの彼が笑ったようだった。それは決して楽しそうなものではない。強いて言うならば、何かを耐えるような、誤魔化すような、そんな痛々しいものだ。
「君が僕のことを好きじゃないことくらい、本当はわかっていた。君には朽木さんみたいな女の子が似合っていることも、わかっていた。でも、それでも僕は君の傍にいたかったんだ。……今まで離してあげられなくて、ごめん」
僅かに震えた言葉は、それでも淡々と紡がれていく。痛みを堪えたようなその声に、一護は理解できずにただ雨竜を見ることしかできなかった。
今、目の前の男は何を言ったのだろう。君は僕のことが好きじゃない?朽木さんみたいな女の子が似合っている?
「おまえ、何、わけのわからねえこと……」
雨竜の言っている意味が心底理解できなくて、一護は茫然とすることしかできない。
確かに自分は酷い言葉を雨竜に投げつけた。別れようとも、言ってしまった。でもそれは、雨竜のことが嫌いだからなんていう理由からではない。それだけは、絶対にありえない。
何かを言わなければならないとわかっているのに、焦れば焦るほど言おうとしていた言葉のどれもが喉の奥につっかえて、言葉になってはくれなかった。
そんな一護を置いていくように、雨竜は言葉を紡ぐのを止めない。
「大体、死神の君と滅却師の僕が一緒にいることなんて初めから無理だったんだ。そもそも僕たちは男同士だし、こんな関係世間が認めてくれるわけない。だからこうなることはむしろ当然だったんだよ。そんなことわかっていた。わかっていたのに」
それなのに。
「――なんでこんなに胸が痛いんだろう」
掠れた声と共に零れ落ちた雫が目に入った瞬間、一護は考えることを放棄した。何も考えられぬまま、一護は目の前で痛々しく震える身体を抱きしめる。
ずっと、雨竜は強い人間なのだと思い込んでいた。一人でも立てるくらいに。一人でも生きられるくらいに。
そうやって生きることしかできない程弱い人間だということを、自分は知っていたはずなのに。
雨竜の小さく漏れる嗚咽が一護の胸を締め付けた。
「……悪、い」
言わなければならない言葉は他にあるはずなのに、一護の口からはそんな単純でありふれたものしか出てこない。
何も言わなかったのは、何も伝えてこなかったのは、自分の方だった。雨竜のことばかりを責めて、伝える努力さえしてこなかった。
だからこそ今、雨竜はこんなに苦しんでいるのだ。
自分が愛されていないなんて、そんなありえない思い込みをして。
「好き、だ」
一護の言葉に、雨竜は小さく首を横に振る。もうこれ以上傷付きたくないとでも言うように。
それでも一護は雨竜を抱きしめる腕に力を籠めて言葉を紡ぎ続けた。格好悪くても、恥ずかしくても、どうしても言わなければならない。
「好きだ。好きなんだよ。ずっとずっと、きっとおまえが俺を好きになるよりも前から、俺はおまえのことが好きだった。何を考えてるのかわかんなくても、俺に頼ろうとしないところも、いつだって一人で立とうとするところも、全部まとめて好きだ」
――だから、これからも俺の隣にいて欲しい。
笑えるくらいに必死な声が、自分でもみっともないと一護は思う。けれど形振り構っている場合ではない。このまま雨竜を失うくらいなら、みっともない方がよっぽどましだ。
そのまま一護は、雨竜の身体を抱き締め続けた。きっとそれは、ほんの短い時間なのだろう。けれど一護にとっては、永遠にも思える時間だ。
それに終わりを告げたのは、ぽつりと呟かれた雨竜の小さな声だった。
「……そんなことを言われたら、君をもう、離してあげられないかもしれない」
「俺だって離してやれねえよ」
「……馬鹿だな、君は」
そう言いながら雨竜は、ゆっくりと一護の背中に腕を回した。決して高くはないけれど確かに温かい温度が一護を包み込む。
それだけのことなのに、どうしてだかこれ以上ないほど幸せなことに思えて、一護は雨竜を抱きしめる腕にますます力を籠めた。
end
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