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この手はずっと握ったままで



 彼が近付いてくる気配がして、腹の上に密かな重みを感じた。それからいくらも経たない内に、細い指先が己の首に添えられる。もう夏だというのに、妙にひんやりとしているのが印象的だった。
 初めは添えられるだけだった指先が、徐々に力を増していく。痛いような、苦しいような感覚に、思わず顔を顰めた。
 耐えきれずに咳き込みそうになった瞬間、つい先程まで己の首を絞めていた指が、ぱっと離される。それはまるで、自分の犯した過ちを、たった今自覚したかのように。
「……殺さなくていいのか」
 頑なに閉じていた瞼を持ち上げると、彼は驚愕に彩られた表情でこちらを見ていた。夜に溶けてしまいそうな二つの瞳は、これ以上無いというほどに見開かれている。
 彼は一度何かを言いたげに唇を動かしたが、言いたい言葉が見当たらなかったのか、それともただ単に言葉にならなかっただけなのか、結局そこから声が発せられることはなかった。代わりに頭が小さく上下して、やはり闇に溶けてしまいそうな色の髪が、さらりと揺れる。
「まあ、簡単に殺されてなんかやらねえけどな」
 冗談めかして口にした言葉に、彼はようやく微笑んでくれた。と言ってもそれが泣きそうに歪んでいたことには、きっと本人は気付いていないのだろうけれど。



 一護が雨竜の家にやって来たのは、近付いた期末試験対策のためだ。死神の力が戻ったことで色々と吹っ切れた部分は多く、勉強にもようやく真摯に取り組めるようになったのだが、その分時間は無くなった。高校三年のこの時期、流石に焦った一護は、いつ勉強しているのかはわからないが相変わらず学年主席である雨竜に白羽の矢を立てたというわけだ。
 いや、けれどこれは所詮言い訳に過ぎないのかもしれない。今年は運良く日曜日となった自分の誕生日に、恋人である彼と過ごしたかったという、なんとも背中がむず痒くなる様な考えの言い訳に。
 それでも雨竜は一護の意図に気付いてくれたのか、何も言わずに受け入れてくれた。
 そうしてささやかながら一護の誕生日を祝い、同じベッドで眠りについたはずの雨竜が、何故か今、自分の腹に跨っている。
「……夢を、見たんだ」
 一護がどうしたのかと問う前に、雨竜はぽつりと呟いた。暗闇には目が慣れてきたが、長い前髪のせいで、彼がどんな表情をしているかはわからない。けれど泣きそうな顔をしているのだろうことは、簡単に予想できた。
「夢だってわかってたのに、勝手に体が動いて、止められなかった」
 最後に小さく謝罪の言葉を付け加え、それきり雨竜は黙り込んでしまう。
 どんな夢なのか、彼は決して言おうとしなかった。だから一護には、彼にこんなことをさせた原因がわからないままだ。それでもやはり、なんとなくは予想できる。
 一護に死神の力が戻ってから、時々雨竜は遠くからじっとこちらを見ることがあった。それが無意識なのかはわからない。けれどそのことについて、彼が何かを言うことは今までなかった。
 恐らく自分しか気付いていない視線。熱っぽいものではない。甘いものなんかでは絶対にない。それは、敵意と恐怖の入り混じった視線だった。
「……死神が、憎いか?」
 そっと問いかけると、雨竜ははっとしたように顔を上げて一護を見る。けれどそれは一瞬のことで、すぐに伏せられてしまった。
「憎くは、ないよ。君も、朽木さんも、阿散井も、大切な仲間だ」
 それは本当のことだろう。そうでなければ、自分の背中を預けるような真似を、彼がするわけない。
「それなのに、時々どうしようもなく死神を許せなくなるんだ。こんなことをしても、もう何も戻ってこないことはわかっているはずなのに」
 最後の言葉は、震えていた。涙の響きはなかったから泣いてはいないのだろうけれど、普段の彼を思えば随分と頼りないものである。
 一護は彼のひんやりとした左手を、己の右手でそっと握った。一瞬びくりと肩を跳ね上げた雨竜だったが、それでも振り払うことはしない。
「俺、おまえの指が好きなんだ」
 弓を引く傷だらけの指が。針を持つ器用な指が。髪を撫でてくれる優しい指が。
 いつだってひんやりとしているはずなのに、こうして確かな温もりを伝えてくれるおまえの指が、本当に好きなんだ。
「だから、そんな指を穢したりなんかさせねえ。その指が、これ以上おまえから何かを奪うのを黙って見てることなんてできねえ。おまえの指は、色んなものを護るために、色んなものを生み出すためにあるんだから」
 石田雨竜という人間のことを、きっと一護は何も知らない。心の底では彼が死神をどう思っているのかも、尸魂界で涅マユリという死神と何があったのかも、それが彼の祖父の死とどう関係しているのかも、本当に何も知らない。
 それでも雨竜が、苦しみながら色々なものを護ろうとしてきたことを、自分は誰より知っているから。
「いくらおまえ自身がおまえの大切なものを奪おうとしても、今度は俺が全部護ってやるよ」
 ――きっとそのために、自分は生まれたのだから。
 雨竜はカーテンの隙間からこぼれた月明かり中で、静かに涙を流していた。それがあまりに美しくて神聖なものに思えたから、一護は握った手をゆっくりと引いて、彼を優しく抱きしめる。
「……君が、生まれてきてくれて、本当に良かった」
 己の腕の中で彼がそんなことを言うから、一護は思わず笑みをこぼしていた。
 こんな風に生まれてきて良かったと思えたのは、きっと初めてのことだ。



end

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