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水葬はしめやかに



 この日雨竜は、広い屋敷の離れにある弓道場にいた。そこは弓道を嗜む雨竜の為にわざわざ建てられたもので、掃除をする使用人たちを除けば基本的に出入りするのは雨竜しかいない。けれど、半ば軟禁状態にある雨竜が、宛がわれた部屋以外に唯一足を運べる場所がここであるため、使用頻度は中々のものだった。と言っても、月島の許可が無ければ部屋からでることができないのは変わらないのだが。
 雨竜はふうと細い息を吐いて、空を見上げる。今日は生憎の曇り空で綺麗な青色は見えないが、軟禁されている部屋には窓が無いため、直接空を見上げられるだけでも雨竜にとっては貴重だった。今では矢を射るためというよりも、空を見上げるために弓道場へ足を運んでいる。
「君は本当に空を見上げるのが好きだね」
 不意に声がしたと思ったら、隣に誰かが立つ気配を感じた。雨竜はその人物が誰であるかを瞬時に悟り、身体を硬直させる。
 月島がここに来ることなんて滅多にないというのに、どうして。
 雨竜が視線を向けても、月島はいつものように美しい微笑みを口元に浮かべるだけだ。その表情からは、怒っているのか機嫌がいいのかも想像ができなかった。
 月島はその表情のまま、ゆっくりと、まるで世間話でもするような口振りで言葉を紡ぎだす。
「獅子河原君のことなんだけどね」
 思わず肩が跳ね上がりそうになるのを、雨竜はなんとか堪えた。
 獅子河原とは月島が雇っている使用人の一人で、雨竜の世話を担当していた者だ。決して良い使用人とは言えなかったが、月島に雨竜と口を利いてはいけないと言われているにもかかわらず、時々言葉を返してくれる優しい青年だった。もしかしたら自分と同じくらいの年の雨竜に同情をしていたのかもしれないが、それでも話相手になってくれていたことには変わらない。もちろん雨竜は後で月島の折檻を受けていたが、それでも今まで獅子河原が何かをされたという話は聞かなかったのに。
 背中に冷たい汗が伝うのを雨竜は感じた。
「そんなにあの子のことが気になるの?」
 雨竜の反応を楽しむように、月島は無邪気な笑みを漏らす。子供のように無垢な笑顔は、同時に残酷で、狂気に満ちていた。
「どれだけ気にしても、獅子河原君にはもう君の世話役から降りてもらったから、無駄なんだけどね」
「降りてもらったって……首にしたんですか?」
 震える声で尋ねる雨竜に、月島は一瞬全ての表情を消す。けれども次の瞬間には、さっきの表情が嘘だったかのように、綺麗な笑みが浮かんでいた。
「彼には違う仕事をしてもらうことにしたよ。獅子河原君のことは僕も気に入っているんだ」
「よかった……」
 自分のせいで職を失わせてしまったのだとしたら、優しくしてくれた彼にもう二度と顔向けできないところだった。
 雨竜はそう思いながら、僅かに微笑む。
 月島の手が飛んできたのは、その時だった。
 あまりの衝撃に、雨竜は思わずよろめき倒れこんでしまう。暴力をふるわれたことなら何度もあるが、こんな風に急な暴力は初めてだ。何が彼の気に障ったのかもわからない。
 呆然と月島を見上げると、彼は表情のない顔で雨竜を見下ろしていた。
「僕以外のことでそんな風に笑わないで」
 言いながら月島は、床についた雨竜の真っ白い左手の上に、自らの長い足を乗せた。靴の堅い感触が当たって、雨竜は思わず手を引こうとする。けれどそれを阻むかのように力を籠められて、雨竜は思わず悲鳴染みた声を漏らした。
「やめ……っ」
 弓道は、今は亡き祖父に習ったものだ。もしも弓を引けなくなれば、自分にはもう何も残らない。もう彼との繋がりは消えてしまう。
 恐怖で、雨竜の身体が震えた。
「あああ……!」
 けれど足に籠められる力は止むことがなく、それどころかますます力は強くなっていく。
「止めて欲しいなら、お願いでもしたら?」
 軽い調子で言いながら、踏みつける力は尚も強くなっていった。
 このままでは本当に、左手は壊れてしまう。一生弓を引けなくなる。祖父との繋がりがなくなってしまう。それだけは、なんとしてでも阻止しなければならなかった。
 堪らず雨竜の喉からは悲鳴が漏れる。
「お、願い、します……っ。足を、退けてください……!」
 月島の足は、呆気ないほど簡単に雨竜の手から退けられた。まるで初めから傷付ける意思など存在しなかったかのように、まるで初めから何事もなかったかのように。
 そして雨竜の方も、身体はまだ震えていたが、左手に感じていた僅かな痛みは先程の出来事が夢であったかのように完全に消え去っていった。傷一つ、残されてはいない。
 けれどもあまりの屈辱に、雨竜は今まで護ってきた何もかもが崩れていく音を聞いた。
 殺してやりたい。雨竜は強くそう願う。
 月島の狂気を目の当たりにした時も、彼に閉じ込められた時も、彼の暴力にさらされていた時でさえそんなことは思わなかったのに、雨竜は今初めて心の底からそう願った。
 殺してやりたい。自分を閉じ込めるこの男を。自分に暴力をふるうこの男を。自分を所有するこの男を。自分に全てを与えるこの男を。そして自分の何もかもを奪い去るこの男を、殺してやりたい。
「いい子だね」
 場違いなほどに明るい声が降ってくると共に、愛おしむように月島の美しい手が雨竜の髪を撫でた。さっきまで自分の一番大事なものを奪おうとしていた人物のものとは到底思えない優しい手つきに、雨竜はただただ俯くしかなくなる。
 外では、降り出した雨が音を立てていた。



end

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あきゅろす。
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