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爪痕の愛撫



 パアン、と。鋭い音が屋敷の一角に響き渡った。
 右頬にじんわりとした鈍い痛みが広がり、雨竜は思わず熱くなった箇所に手を当てる。鈍かった痛みは、やがてはっきりとした刺激になり、雨竜は右目を眇めた。俯いたままの視界に、白く細い指先が映る。
 彼の指は女性のように繊細で、儚いほどに美しかった。綺麗に切り揃えられた桜色の爪も、しなやかで荒れ一つない指も、見るからに柔らかく肌理の細かい真っ白な肌も。まるで本の頁を捲る為だけに作られた彫刻品のようであると、雨竜は見る度にそう思う。
 その指が、いつも容赦なく暴力を振るうことを、雨竜は未だに信じられなかった。
「ここには誰も入れないでねって、言ったよね」
 奇妙に静かな声が、雨竜の鼓膜を震わせる。怖いほどに穏やかで、冷たい声だ。
 雨竜がゆっくりと彼の指から視線を外し、俯いていた顔を上げると、綺麗な微笑を浮かべた月島がそこには立っていた。
 相変わらず美しく無駄のない動作でしゃがみ込み、月島は先程自らの手で打った雨竜の頬を、優しく撫でる。けれど次の瞬間、その手はまるで違う生き物のように雨竜の前髪を強く掴んでいた。
 いくら慣れた行為とはいえ、痛みに顔が歪むのを雨竜は止められない。
「ねえ、誰を入れたの」
 何も知らぬ者が聞けば、凪いだ海のように美しいその声音に潜むのは、紛れもない狂気の色だった。幾度となくその狂気に晒された雨竜の身体は緊張し、動けなくなる。喉は、からからに渇いていた。
「どうして何も言わないの?」
 強引に視線を合わせられ、雨竜は思わず視線を逸らす。真っ黒で、吸い込まれそうな闇を思わせる月島の双眸が、雨竜は初めて見たときから苦手だった。この瞳に見詰められると、全てを見通されているような気持ちになる。
 雨竜が視線を彷徨わせていると、今度は先程とは反対の頬に強烈な衝撃が走った。あまりの痛みに、息が詰まる。口の中が切れたのか、鉄の味が舌の上に広がった。
 けれど月島は、相変わらず美しい微笑を口元に湛えたまま、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「お祖父さんが死んで、一人ぼっちになった君を引き取ってあげたのは、僕だ。その恩を、もう忘れたのかい?」
 ――ねえ、雨竜。
 名を呼ぶのは、甘く、優しい声。愛しさすら、含んだ声だった。
 けれど、月島がそんな感情を抱いていないことなど、雨竜は知っている。
 月島の言った通り、祖父が病で亡くなり、孤児となってしまった雨竜を引き取ったのが遠い親戚であった彼であることは、確かな事実だった。高校生になったばかりの雨竜を進んで引き取ろうとする者は彼の他におらず、雨竜もその時ばかりは月島に感謝していた。
 けれど雨竜はすぐに、月島の身体に宿る狂気を目の当たりにすることになる。
 まず初めに学校を辞めさせられた。次に月島以外の誰とも会うことを許されず、さらにはこの部屋から出ることすら禁止された。
 もし言いつけを破れば、容赦のない暴力が雨竜の身体を襲う。まるで、籠の中の鳥のようだ。
 そう考えて、雨竜は思わず自嘲の笑みを漏らした。
 籠なんて生温い。ここは、地獄だ。
「……笑える余裕なんて、ないと思うけど」
 言い終わる前に、月島は前髪を掴んだまま、雨竜の頬をもう一度打った。衝撃で眼鏡が外れ、視界がぼやける。逃げることも、身体を倒すこともできぬまま、雨竜は為すがままにされた。
「どうやら理解していないみたいだから、もう一度言ってあげるね」
 月島はその場に似つかわしくないほどの明るさで、楽しそうに笑った。
「君は僕にだけ愛されていればいいんだよ」
 美しい指先が、雨竜の唇をゆっくりとなぞる。抵抗しないその唇に、月島は自分のそれを優しく触れ合わせた。
 それがまるで愛を確かめる行為のようで、雨竜は内心で嘲笑する。
 これは愛ではない。いくら月島がそう嘯こうとも、そんなものであるはずがない。
 もし、自分に対する彼の感情に名を付けるとしたら、それは多分――。
「……わかったかな」
 雨竜はぼんやりと霞む視界の中で、ゆっくりと頷いた。初めの内は抵抗もしていたが、今ではそれも無意味だということがわかっている。
 痛みも苦しみも何処か遠い場所で、頬を撫でる月島の美しい指の感触だけが、はっきりと伝わってきた。
「いい子だね」
 遠い意識の中で、月島の優しく囁く声が聞こえてくる。
 もう一度唇を合わせられ、雨竜は今度こそ静かに目を閉じた。



 もし、自分に対する彼の感情に名を付けるとしたら、それは多分――執着だ。



end

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あきゅろす。
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