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『夢の飼い主』




新学期が始まったばかりのころ、それは四月の中旬のこと。
私の愛犬が死んだ。
三日前までは元気だったのに、体調を悪くしてからはあっという間だった。私は目の前で磨り減っていく命の儚さを氷のようだと思った。ある温度に達した途端に溶け始めて、そこからは流れるように単純。
いや、本当は単純なんかじゃない。それはたとえ話の話。

「頑張れ、頑張れ」

お母さんの声は震えていたし、私の視界も滲んでいた。前は見えない、けれど音だけは鮮明に聞こえる。
ぜぇぜぇと、荒く上下する体と息の音。
苦しいの?
苦しいよね、ずっと走り続けてるみたいなものだものね、海で溺れそうになっているみたいなものだものねぇ・・・。満足に息もできなくて、それでも必死に生きようとしている心音は、どんどんどんどん早くなっていって、私が数えるのも大変なくらいだった。

「頑張ったね、頑張ったね」

病院から帰ってきた彼を抱いて、お母さんは撫で続けていた。


お水を飲むともっと苦しくなるからと、お水を飲むのを我慢していた彼は最後にたくさんのお水を飲んで、それから死んでしまった。びくんと一度だけ大きく身体を揺らした後、動かなくなってしまった。

私は眠ることも忘れてただ一晩中泣き続けた。
お父さんとお母さんが仕事に行っても、お兄ちゃんが眠っても、私はただ泣き続けて
彼のそばを離れなかった。自慢にはならない、だけどコレだけは言える。彼の命が尽きてから私は誰よりも彼の隣にいた。
彼が風を浴びるのが好きだったことを思い出して窓を全開にした。前日の雨が嘘みたいに晴天の空。


「あぁ、お前は本当にいなくなったのね。」

彼の身体からは無機質な匂いがした。固くて、瞳を開いたまま動かない。呼びかけたって動かない。そこにあるのは彼の器なのだ。中身がなくなってしまったお人形みたいなもの。魂の抜けてしまった彼の身体は生きていた頃よりもずっしりと重かった。彼のにおいはもうしない、冷たい、どこにもない。


彼を燃やすときに私はもう一度大泣きをした。
あの綺麗な毛も、細かったけれど柔らかかった身体も灰と骨になるんだと思うとただただ涙が出た。これでもう本当にさよならなのかなって、もう顔を見ることもできないんだなって涙がでた。
二十分焼いただけで、彼は毛も皮膚もなくなって内臓の燃えカスと骨だけになった。丹念に私たちはそれを拾った。少しでも多く、彼を家に持ち帰るためだけに。
遺骨を持ったのは私だった。
骨はまだ温かくて彼が生きてるみたいだった。車の窓を開くと風が吹き込む。光を灯した彼の瞳はいつも遠くを見ていた。どこを見ていたのか、もちろん私にはわからなかったけど気持ちよさそうに細められる大きな目が好きだった。大好きだった。大好きでした。


ねぇ、命は重いって言うけど全然そんなことはないよ。存在が大きいだけで重さは全然重くない、私の両手に軽々と納まってしまうくらいだもの。命の抜け出た身体は重力に逆らうことはない。もしかしたら、それって生まれる前と同じ空っぽの姿なのかもしれない。
私は言った。誰もいない部屋で呟いた。それは独りぼっちを誇張するものでしかなくて、寂しくなるだけだった。


それから私は眠ることが怖くなった。眠っている間に、大切な人たちと一生離れ離れになるんじゃないかって、怖くて、ただ怖くて、私は眠るができなくなっていった。布団に入って目を閉じる。だけどそこに浮かぶのはいつだって葛藤。彼はあの時、生きたかったのか、それとも楽になりたかったのか。

だからあの晩、私は驚いたものだ。



「こんにちは、」
「何をしているの平田君?」

私の部屋前のベランダで手を振る平田君。平田君、というのは私の高校の同級生。ほとんど話したことはなかったけれど三年間同じクラスだから顔くらいは知っていた。

「紘ちゃんに会いに来たんだよ」
「平田君、言っておくけどこれって不法侵入っていうんだよ?」

平田君は悲しそうな顔をする。私はそれが不思議だった。

「紘ちゃん、僕だよ」
「平田君?」
「紘ちゃん」
「もしかしてマロ?」

マロ、とは私の愛犬の名前。どうして私の口からその名前が出てきたのかはわからない。けれど私は昔からどんな状況でもそんなものかと割り切れる子だったから、このときもそうだったんだろう。だって願っていた、またマロに会えないかと。だから平田君は私にとってのマロで間違いないのだ。

平田君はとても満足げに笑って「うん」といった。

「マロ、どうしたの?幽霊になっちゃったの?と、いうかどうして平田君なの?」
「この人、すごく紘ちゃんのこと心配してたんだ。だから少しお話したら身体を貸してくれたの。」
「それは・・・すごいね」
「うん、すごい。でももっとすごいのは紘ちゃん、君だよ。」
「私?」

マロは楽しそうにベランダをくるくると走り回る。そして等しし指を高く掲げたかと思うと、満月を指差して笑った。

「紘ちゃんがね、僕のことをいっぱい考えてくれていたから、お月様が魔法をかけてくれたんだよ。」
「マロ、言っておくけどお月様にうさぎさんはいないのよ?」
「そうだね。でもうさぎは魔法をかけてくれないでしょう?」

ふふふ、と笑うとマロが私の手を握る。きちんと温かくて、あぁ生きているんだなと思うと心の中がほかほかしていくのがわかった。こんな風に笑うのは久しぶりだった。そうだな、うさぎなら魔法はかけてくれなかったかもしれない。それならお月様でも神様でもなんでもいい。

「なるほど。長い人生だものね、こんなことがあっても不思議じゃないかも。」
「そうそう!さぁ、紘ちゃん行こう。お散歩しようよ久しぶりに。」
「どこに行きたい?いつものコースにしようか?」

土手からぐるりと町を回る20分の道のり、それがマロの散歩コースだった。くんくんと草木をにおって、堂々と歩き出す彼の姿はいつも誇らしげだったなと思う。そのくせ大型犬が通ると力いっぱい逃げたがる小心者の小型犬。

「それもいいけれど、せっかくだし星を見に行こうよ。いつも言っていたでしょう?僕を散歩に連れ出しては『もっと星が近くに見えたらな』って。」

マロはまたくるくるとベランダを回った。

「暖かくしてね、マフラーもコートも忘れちゃ駄目だよ?」
「うんうん。あ、でも靴をとりに行かなくちゃ」
「靴は・・・いいや、おっこちちゃうと大変でしょう?」
「ああ、それもそうだね」

なんの疑問も持たずに私は返事をする。
マフラーをくるくると首に縛り付けて、コートを羽織る。マロに目をやればニコニコと笑っていて、もしも平田君に尻尾が付いていたなら千切れんばかりに振るのだろうなと私は切なくなった。マロは散歩という単語を聞くたびに長い尻尾を力いっぱい振っていた。いつも動くことを嫌う彼が唯一俊敏な動きで私の元に駆け寄ってくる瞬間だった。じゃれるように、楽しそうにワンワンと吠えるのだ。私はそれが嬉しくて、いつも焦らしては身体をわしゃわしゃと撫で回した。

「よし、行こうか、紘ちゃん」
「うん!」

マロは手馴れたように私の手を取って、私はその手を強く握り締めた。すると身体が軽くなって宙に浮くような感覚・・・ではない、実際に私たちは浮いていた。

「うっわ、ちょっと待って!」
「大丈夫だよ、離さないし」

ぐんぐんと浮き上がる体は不安定に揺れる。
(ああ、こういうことだったのか!靴が脱げるって!)
我が家の高さを越えて、遠くに見える小学校が小さくなるのを確認してからは、もう怖くて下は見れなかった。だから代わりに視線はマロに注がれていた。マロもこちらを見ていたものだから視線は交わって、なんともいえない気分だった。だって身体は平田君なのだ。どうして私は平田君と空を飛んでいるんだろう。すごく違和感。なんだろうな、この変な感じ、胃がむかむかする。

「はい、このあたりでいいかな」

はっと我に返る。私はその感じを追い出そうと頭を振った。
見渡すとそこは海の真上だった。私たちには慣れ親しんだ、工場の並んだ海。造船業が盛んなこの地域では見渡せる海にはどこでも工場が立っている。海の色も日の出ているうちは薄汚れた緑色をしていて、「体に悪そうだよね」と言ってはお兄ちゃんとよく泳いだ。
月は海に映って揺れていた。風は冷たくて、私の頬を刺すように掠めていく。

「今日は満月なのね」
「・・・僕、ここに来てみたかったんだ。」
「マロは来たことないっけ?」
「そうだよ。僕、泳げないからさ、家で留守番。二人ともここ行った日は魚の匂いで帰ってきたよね。」
「魚じゃないよ!潮の香りっていうんだよ。」

ふーん、と鼻をくんくんと動かすマロはなぜだか困った顔をして笑う。

「どうかした?」
「いやぁ、あの頃よりずっと薄い匂いだからさ。あまりくさくない。うん、お塩の匂いだ。」
「はは、そりゃ平田君に感謝しなくちゃね。」

乾いた空気を吸い込むと鼻の奥がぎゅっと痛くなった。ツーンと水が入ってきたときのような痛みに身体の内側が震える。寒いからかもしれない、と自分に言い聞かせた。

「紘ちゃん、星を見よう」

マロは言った。そしてそこに透明な板でもあるかのように空気の上に寝転がった。

「・・・大丈夫なの?そんな風に転がって落ちちゃったりしない?」
「平気だよ。ゆっくり上を向いて?」

身体は弧をかくように緩やかに方向を変えて、ちょうど夜空を見上げる体勢で止まった。

「なんて便利なんでしょう。どういう仕組みなの、これ?」
「僕にもわかんない。」
「結構ふわふわしてるね、雲の上に寝転がったらこんな感じなんだろうな。」
「雲の上には乗れないよ?」
「それをいうなら普通、私たちは空を飛べないよ」

今なら、というのが本音。
こんな魔法が使えてしまう世界なら雲の上にも乗れるかもしれない。日本でオーロラだって見れるかもしれないし、マロだって・・・。マロだって明日には生き返っているかもしれない。

「オリオン座・・・」

西の空の端に見えた特徴的な星座。

「あの端に見える赤い星がベテルギウス?」

左端を指差して微笑むマロに、自然と笑顔を浮かべながら私は答える。
「そうそう」
「久しぶりに見た。僕、もう何年もこんなに鮮明にものを見たことなかった。」

そういえばマロは長いこと目を患っていた。いつの間にか物にぶつかる様になって、いつも目やにを拭くときにのぞく瞳は白く濁っていた。

「お前、ちゃんと私の話を聞いていてくれたのね。」
「別に。紘ちゃんが勝手に言っていただけだよ。耳に入ってくるから、覚えたんだ。」
「マロ・・・やっぱりお前性格悪いよ。思ってたのよ私。お前の行動パターンからすると底意地悪そうだって。今日は随分猫を被っていたのね・・・。ボロがでてきてるわよ。」
「紘ちゃんは僕にお預けしすぎなんだって、なんでも。散歩のときだってさ、いつもいつもリードをもってからが長いんだもん。」
「いいじゃん、マロは結局待てなくて私の手をがぶがぶ噛むんだからさ。」

ふふっと笑うマロ。私も彼につられてははっと笑う。強く握られた私たちの手の絆は一緒なんだと思うと安心できた。マロはちゃんとマロだった。

「ベテルギウスってもう死んでるかもしれないんでしょ?」
「そうそう、光が弱まってきていて・・・。ベテルギウスって地球からは約六百四十光年離れた場所にあるの。一光年っていうのは光が一年に進む距離のことね。つまり、私たちがこうしてみている光も六百四十年前の光ってことなの。だからあの星は昨日死んだかもしれないし明日死ぬかもしれない、もしかした今死んだかもしれないし何百年も前に死んでいたかもしれない。だけど、それを知るのはベテルギウスが超新星爆発を起こしてから六百四十年後なの。」
「せっかくこうして、また見ることができたのになぁ。光の残像なんだね。」
「そうだね。だって今日ある光が明日には消えていてもなんの不思議もない。もしかしたら今から一分後があの星の六百四十年後かもしれない。」

・・・今あるものが当たり前だなんてことはないのだ。私は痛いほどそれを知った。終わりはそこらじゅうに転がっているし、この瞬間にも足を踏み入れているかもしれない。人生って、そんなものだ。見えるのは過去だけ。後悔しか見えないようにできている。今も未来も、考えなくてもやってくるものだから。

「でも、俺たちが今見ている光は確かに生きているんだよ。」

その言葉に驚いて思わずマロを見る。マロはまだ空を見上げたままだった。
私はまるで絵みたいだなと思った。星が空を飾っていて、月の光は地面を彩る。そしてそこに映るマロはマロじゃないみたいな顔をしていた。真っ直ぐな目を宙に向けて、乾いた声で呟く。

「忘れないで。消えたって、全部なくなるわけじゃないんだって。」
「マロ?」
「どうかしたの、紘ちゃん?」
「あ・・・ううん、なんでもない。」

私の心臓はいつもより早く脈を打っていて、全然なんでもないことはなかった。マロのことを考えたらいつもこうなる。あの日からだいたいこうだ。もちろん違うことも多くある。だけれどそれを言葉にするにはたくさんの勇気が必要で、私はその仕事を放棄するようになっていった。
ほとんど変わってしまった。私は動いているから。

「紘ちゃん、見て。レグルスだよ。」

言われるがままに目だけを動かして、息を吸い込んだ。冷たい空気は肺にしみて不安になる。ドクドク、する。

「・・・じゃあ、あれはスピカね。」

私は目から涙が溢れてくるのがわかった。どんどん身体の中に回ってくる温かさが急に恨めしくなったのだ。

違和感の正体に私は気づいていた。


「もう、春が来るのね。」

マロは高いところが苦手だった。だけど今のマロは違う。夜空の中にいてもこうして私と微笑むことができる。それはマロであってマロではないから。彼が平田君だからだ。

不意にヒューという鳥の声とも笛の音とも似つかない音にあたりが支配された。現実の世界に、光を散らしたみたいな感覚に、私はどうやって打ち勝てばいいのかがわからなくて喉が渇いた。夢みたい、現実の世界じゃないみたい。そして、本当に現実ではないんだ。

「そうだよ、春がくるんだよ、紘ちゃん。」

マロが息を呑んだ音がして、その音と同じくらい微かな声でマロは始めた。声の冷静さに胸が抉られたみたいになったのは、彼の声に好感を持ってしまった所為だと思う。

「ねぇ、紘ちゃん。僕、紘ちゃんのことが大好きだったんだ。紘ちゃんは僕の頭を誰よりも撫でてくれたよね。僕が紘ちゃんの家に行ったとき、君はまだたったの二歳で僕のことを興味津々に見ていた。僕は何をされるんだろうか、どうして家族と引き離されてこの家に来たんだろうって何もかもが怖かった。だからよくソファーの下に隠れてはお父さんやお母さんを困らせたよね。だけど身体が大きくなっていくにつれてそれもできなくなって、もっともっと怖くなっていた。特に紘ちゃんは僕のことを何かあるたびに触ろうとするから要注意人物だった。毛を引っ張ったり、足を踏んだり、そういう時は『このばかやろう!痛いじゃないか!』って思いながら君の事をがぶってよく噛んだよね。紘ちゃんは懲りずに何度も同じことを繰り返したけど、僕も教育してやるって気分になって同じ分だけ君のことを噛んだ。君はすぐに泣いた。僕は焦って君の顔をペロペロ舐めた。紘ちゃんは喜んですぐに泣き止んで、また僕を触るんだ。そんな風に毎日を過ごすうちに、あの家は僕の家になっていったんだ。僕の居場所だったんだよ。紘ちゃんが高校生になってからは君の足に寄り添うのが好きだった。君は僕の事を空気みたいにそばに置いてくれるからすごく居心地がよかったんだよ。その頃にはむやみやたらに引っ張ることもしなくなったし、教育の賜物なのかなって心の中で笑ってしまったものだよ。」


私の胸はどきどきしていて、涙は止まらなかった。
どきんとすると、ポンプで押されたみたいに涙が流れる。・・・あの日と同じように。
わかっていた。本当はわかっていたんだ。どうしてマロが私のところにもう一度出てきてくれたのか。

「ねぇ、紘ちゃん。君は最後に僕にお水をくれたよね。僕が喉が渇いて苦しそうにしていたから卵の黄身とお水を飲ませてくれた。お父さんとお母さんと紘ちゃんは無言だった。いつものようにテレビの音がうるさく響いていて、カレーの匂いがした。黙ってカレーを食べる皆を見ながらお水をたくさん飲んだんだ。皆がどうしたら笑ってくれるだろう。その瞬間、僕はまだまだ死ねないって思ったんだ。本当だよ。苦しかった、このまま生きていても皆が笑ってくれないなら終わってしまったほうがいいのかなと思ったりもした。僕は病院が嫌いだったから、君たちが迎えに来てくれるまではそんな風に自暴自棄になったりした。でもね、お父さんとお母さんが迎えに来てくれて、紘ちゃんが抱きしめてくれて、車の窓から風を浴びさせてくれて、こうして頑張れるうちは頑張らなくちゃって思ったんだ。生きたいとか、死にたいとかじゃない。生きなくちゃ駄目だって思ったんだよ。」
「ごめんなさい、マロ。私のせいだね、頑張ってくれようとしていたのに私がお水を飲ませてしまったから貴方は死んでしまったんだね。」

犬の心臓と肺は繋がっている。マロは身体の水分がそこに混ざってしまって、肺を圧迫するから苦しんでいた。水分を摂ると、染み出してしまう水が多くなるからもっと苦しくなる。私はそれを知っていた。だけれど水をあげた。そして、それから何十分もしないうちにマロは死んでしまった。

「それは違うよ紘ちゃん。紘ちゃんのお水はおいしかった。僕は飲みたいから飲んだんだよ。君はそうやっていつまで苦しむつもりなの。僕は寿命だったんだよ。」
「でも私がお水を飲ませなければマロはもう少し生きれたかもしれない、そうしたらお兄ちゃんだってマロの死に目に会えたかもしれない!」


ずっと胸につっかえていた塊はそれだった。
マロが生きたいなら最後まで頑張らせてあげたい、マロが死にたいなら少しでも早く楽にしてあげたい。けれど彼は口を利くことができない。だからそんな考えはどこまでも私のエゴだった。彼のためと口にしながら、私は私のことしか考えてはいなかったのだ。
マロが苦しむところを見るのがつらい、だからああしてお水をあげたんじゃないの?
死んでしまったときにこれでこれ以上自分が傷つかずにすむって思って安心したんじゃないの?
結局私は最後の最期まで自分のことしか考えていなかったんじゃない?

「そうだね、だけど僕はあの苦しみにもっとずっと耐えなくちゃいけなかった。言ったでしょう?生きなくちゃとは思った。だけどね、それは生きたいでも死にたいでもなかったって。あるべき命を全うしようと思っただけなんだよ。僕にも正直わからなかったんだ。これでよかったのか、なにが駄目だったのか。だけど、紘ちゃんを見ていてわかったんだよ。今あることがすべてなんだよ。今が全部よかったってことなんだよ。」
「嘘!私は嫌な人間だったもの、貴方のことより私のことを優先したんだわ。あのときだけじゃない。異変に気づいてからもっと早く病院に連れて行ってあげてたら、あんなに興奮させて心臓に負担をかけなければ、私にもっとちゃんとした犬の知識があったらこんなことにはならなかったかもしれない。もっと貴方を苦しまない方法で逝かせてあげることができたかもしれない。私、ずっと後悔してた。もっとマロに優しくしてあげていればよかったって。いっぱい遊んで、たくさん撫でてあげればよかった。マロにもっと美味しいものを食べさせてあげればよかった。いっぱい散歩に行けばよかった。飽きるほど話しかけ続けていればよかった。ごめんなさい、ごめんなさい。戻ってきてよマロ。私、寂しいよ。マロが呼んでも来てくれなくて寂しい。家に帰ってきて独りぼっちは寂しいよ。」

マロ、おいで。
最初は癖で名前を呼んでいた。そのたびに存在しないことが現実になって苦しくなった。だけど今ではそれもない。彼は私の中で二度死んだのだ。マロは私の中で本当に死んでしまった、だから名前を呼ぶことはどんどん減っていった。それはとてつもない恐怖だと思うようになった。記憶は薄らいでいく、あんなに近くに居たはずなのに。怖い、忘れることが怖い。居ないことが当たり前になっていくことが怖い、死ぬほど怖い。


「紘ちゃん、もういいんだよ。紘ちゃんには未来があるんだから、いつまでも過去の悲しみ囚われないで。記憶は薄らいでいくものだよ。人間も動物も同じ。それは生きていく上で必要なことだからだよ。君がそうやって僕のことを思っていてくれただけで、もういいんだ。」

マロは生きていたときの毛の色と同じように金色に輝いていた。

「紘ちゃん、ごめんね、バイバイの時間だ。」

「嫌だ!いいじゃない、私の中においでよ、平田君じゃなくて私の中で一緒にいようよ!」
「無理。」

きっぱりといって、マロは私の手を離した。私は急に重力を感じて海に向かって落ちていく。


(ちょっとまって!これじゃ、私の未来なくなっちゃうじゃん!)


風を切って落ちて行く私の身体はひんやりと冷えていて感覚などはとうになかった。けれども指先に残る微かな温かさが痺れたように疼いて、切なさだけは確かに目の前にある。私の記憶に残っているのはここまで。












「小林さん、小林さん。」

瞳を開くと、そこはまだ薄暗くて肌寒い。

「マロ・・・?」

マロは眉をひそめる。複雑そうな顔だ。

「・・・ごめん。俺は平田涼佑です。小林さんのマロじゃないよ。」
「あぁ、そっか。ごめんなさい。」

私が横たわる場所が近所の公園であるとわかったのはそのあと少ししてからのこと。私の身体にかけられていた平田君の上着は丁重にお返しして、ぼさぼさになってしまった髪の毛を手ぐしで直す。頭の中はまだ上手く回っていなくて、私は必死で思い出そうとしていた。どうして私は、ここにいるんだろう。

「家まで送るよ。」
「大丈夫、すぐそこだし。」
「でも、君の犬との約束だから送らせて。」

君の犬。それはつまりマロのことで、平田君はマロのことを知っていて・・・。嗚呼、あれは夢じゃなかったのか。平田君はためらわずに私の手を掴んで、そして握った。彼の指は私よりも少しだけ冷たい。

「ごめん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。温かい。」

マロと繋いでいたときよりも温度こそ低いけれど、平田君の大きな手は確かに先ほどまで握られていた手で、私は心が緩むのがわかった。

彼の話によるとことの始まりは昨日の放課後、学校からの帰り道。彼は私の周りをさまよっている俗に言う幽霊とやらに話をかけたらしい。平田君は小さな頃から霊感が強く、そういう類のものは常に見えていたそうなのだが、私の周りをぐるぐるしている白くてもしゃもしゃしたものがいつまで経っても離れず、おまけに私が元気がなくなった時期と被っていたものだから、どうにかできないものかと力を貸してくれようとしたのだ。

そう、その白い物体。それこそがマロだった。平田君は人間で、もちろん犬であるマロの喋る言葉を理解することはできなかったけど、シンパシーというか、念話というか、とにかくそういった特殊な感じの直感でマロが悪いものではなくて、私とひたすら話したがっているということだけは感じることができた。

「俺は身体を貸すぐらいならいいよって言った。だけど別に超能力者ってわけじゃないからさ、それ以上は何もできないし、どうするんだろうって思ってた。何か適当なことを言ってたけど・・・よく覚えてない。むちゃくちゃなこと言ってたよ。でもさ、マロが俺の身体に入ってくると急に空とか飛べるようになってるんだもん。俺、ビックリしちゃった。」
「平田君は覚えてるの?マロが身体の中に入っていたときのこと。」
「うっすらだけどね。空を飛んだこと、寒かったこと、君が泣いていたこと。断片的なことを少しずつだけ覚えている。」

そこで私は思い当たった。
時折感じた違和感や知らない人のように見えたのは全部平田君だったのかもしれない。
あの言葉も、あの表情も、マロじゃなかった。そこだけは確信できる。

「マロは、どうなったんだと思う?」
「成仏したんだろ。君の事を許したいって願いが叶った瞬間、俺の身体が軽くなって、気づいたらここにいた。小林さんも隣で眠っていたよ。あのとき、綺麗な光が見えた。温かくて、これはいい方向に物事が進んだんだなって思った。」
「そっか・・・、それならよかった。」

平田君は細く微笑んで、私の手を離してくれた。柔らかい光が私と彼を包んでいて、私は目を細める。日の出だ。朝が来たんだ。

「送ってくれてありがとう、平田君」
「どういたしまして」
「それじゃ、学校で。」
「・・・あのさ、小林さん。今日から小林さんはもっと笑えばいいんじゃないかな。マロがいなくなっちゃう前みたいにさ。」


今でも思う。あれはやっぱり夢だったんじゃないかって。

「俺、下心とか含めて、笑ってる小林さんが大好きだから。」
「え、」
「ばいばい!」


だけど、それでもいいやって思うことにした。
明けない夜はないとはよく言ったもので、この星が廻り続けるかぎり朝は来る。その光は私たちを黄金色に照らし出して、多くの恩恵を与えてくれる。生命は循環するものだから、それならこの陽だまりの中でもう少し頑張ってみようかなって思える。理不尽で愛しいこの世界にもう少しだけ身をおいて優しさに浸ってみたいって。

だってもしそう信じることができたなら、世界は私の知らない鮮やかな色で素晴らしい方向に輝いていくものだと思うから。





とがき

100301→100321

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あきゅろす。
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