『真夏の帰宅』
喫茶店の冷えた空気を吸い込むと今年の夏の暑さが嘘のようだった。天国、まさしくここは天国!
「おーい、こっちだ」
「うわ奇遇、元気にしてますか?」
「呼んどいてそりゃないだろ」
彼が微笑むと両の頬に懐かしい笑窪が浮かび、つられて私も微笑み返す。
高橋佑多の笑窪を見たのは実に四ヶ月ぶりのことである。立ち上がる彼を目の前にするとまたいちだんと身長が伸びたように感じた。もしかして180cm超えた?
「相変わらず可愛い笑窪とでっかい身長ですこと」
「お前ねぇ、仮にも先輩にそんな口の聞き方はないだろ」
身長のわりに細身の体から発せられる低音の声と、その笑窪とは少し不似合いなように感じられるがこれが佑多のチャームポイント。男の癖に笑窪って可愛いとか言われるのよね。それもどうなのって話だけど。
「いいじゃん。昔からの仲じゃん。私が高橋先輩って呼んだら部活のとき以外はやめろって言ったくせに」
「だって気持ち悪いもん」
「あんたがね!」
佑多は透明なグラスの中の緑の液体をわざとらしく揺らした。多分メロンソーダーだろう。
「どう?元気か?」
「まぁ、そこそこね。て、いうか聞いて驚け、今年はなんと夏大準優勝!」
「知ってる」
「私、ベンチにいたんだから」
「ふ〜ん」
さも興味なささげにグラスに目を落とした。しかし瞳の綺麗な黒色が少し澱んでいた。左手の人差し指をリズムをとるように机にうちつけはじめると「でも負けたんだろうよ」と不機嫌そうな声が私の傷をえぐってくる。私はなんとなく罪悪感に襲われた。
「うっさい」
それでもそう悪態をついたのは自分にイラついたからだ。
彼がこのしぐさを始めるときは必ずといっていいほど気持ちを抑えようとしている。彼は私の傷をえぐったが、私は彼の傷をえぐってしまったのだろう。
「亜矢?」
「・・・」
「悪ぃ、ごめん」
「・・・」
「機嫌直せよ、なんか頼むか?」
「・・・チョコレートパフェとそのメロンソーダ一口」
「はいはい、」
「あと駅中で売ってるワンピとキャミとスカートもほしい」
「おいこら、調子にのってんなよ」
わざとらしく小突くような仕草に安心して私は今日の本題を持ち出すことにした。
「ところでさ、佑多」
「無理だぞ」
先ほどと同じような不機嫌な顔が私の目をしっかりと見据えていた。
「・・・あのさ、もしこれが百万円あげるとかだったらどうするわけ?あんた今絶対後悔してたよ。人の話は最後まで聞きなさいよ」
「お前が百万持ってるわけねーじゃん」
ニヤリ
そんな音がぴったりな底意地の悪そうな笑顔が視界のど真ん中で固定されて、あどけない表情はやんちゃに笑窪を刻む。こんなムカつく笑顔にまで笑窪がでるなんてラッキーな男。なんだかイラついた気持ちも半減した。なんていうのかな、和むとか?とにもかくにもこの笑窪のおかげで女子との修羅場はある程度乗り越えられてたに違いない。でも、
「佑多って男子に笑ったら殴られるでしょ」
「失礼なやつだな」
「絶対男子には嫉まれてるよ、その笑窪」
佑多君の笑窪が好き!ってだけならともかくその理由で本気になって彼氏と別れた先輩たちの話を聞いたことがある。
「俺は笑顔の安売りなんかしねーし」
「嘘つけ。ここに来てすでに二回は笑ったよ。」
「そりゃ、お前にだけ大サービス?」
「はいはい。」
カツカツ、またあの音が聞こえた。それは私の意志を躊躇させるには十分すぎたが、譲れないことだった。私は彼にもう一度野球をさせたいのだ。
「ところで、用事はそんなだけ?」
「まーね」
「お前も諦め悪いな」
「いいじゃない、時々学校に来て後輩に指導してくれるだけでいいの」
今日の本題とはまさにこのことであった。
「監督は佑多にやってほしがってる。」
「大げさだな」
「本当だよ、あの年は確かに初戦敗退だったけど、力だけなら今までのどのチームより強かったって言ってた。佑多はその年のチームの捕手で、四番でしょ?」
「・・・お前はなんの権利があって俺の人生を決めようとしてんの。行かねーっていってんだろ、過去のことを持ち出すな」
左の指が奏でる音が徐々にスピードを増している。その音に神経を集中させると目元に集まっていた熱が散っていくような気がした。
「つまり佑多にとって、人生を決めるくらい野球と関わりを持つことは需要なことだってわけね?」
小さくうめき声が聞こえ、がっしりした右手がグラスを強く握った。そのまま私の頭にメロンソーダでもかけるつもりかと内心焦ったが、佑多はそれに口をつけるだけだった。
さっきまでとは違い、私をまっすぐに見つめることのできない瞳が嫌な感じに細くなる。
諦めたような短い言葉だった。
「だったら何だよ」
奇妙な感覚だ。それは佑多も同じらしく、その感覚の正体にも気づいていた。私たちは今、互いに何をしようとしているのか、何をしていたのかをあらためて実感したようだ。
途端に何に対してなのか冷や汗が流れた。
確実に取り返しの付かないことをしている、それは彼の人生をめちゃくちゃにだってできるくらいの大きなものだ。
覚悟はしてきたつもりだ。
恨まれても、なんでもいい。彼が野球と向き合ってくれればそれだけでよかった。なのに、思い知った瞬間に私の覚悟は揺らぎ始めた。私は何をするつもりなんだ、と。
野球をやらせたい、ならどうして?
彼が本当は野球が大好きだから、関わることをやめてほしくなかった、本当に?自己満足なのではないだろうか、彼のためだなんて。本当は安心していたんじゃないの?これで佑多は野球から自由になれる、縛られて他人からどうこう言われなくて済む。
不意に佑多の目が赤いことに気づいた。指を打ち付ける音は止んでいる。
「あのさ、亜矢」
「・・・」
「本当はお前らがそこまで勝ってたなんて知らなかっ
た。」
「・・・なんの話?」
「準優勝の話だよ。笑うなよ?俺、こんな風に暑くな
って、大会が始まってるって気づいてから、怖くてテ
レビ見れねーんだ。」
「・・・」
「女々しいよな、この時期って甲子園近いからそろそ
ろ野球番組増えるじゃん?直視できねーんだよ。俺らはやれることやったって思ってても、馬鹿だから本当は割り切れてなくて。それがテレビを見るたびに・・・いや、野球関係のものならなんでもいいんだ。野球を思うだけで実感させられるんだよ。俺たちは本当に終わったんだって。」
それが死ぬほど悔しくてたまらないんだ、あんだけ頑張ったのに、あれだけ皆で、死ぬ気でやってたことがすべて、一回の負けだけで否定されてしまうだなんて。
「それをなにより肯定している自分のすべてが嫌になんだよ」
大きく息を吸い込んだ佑多の呼吸に私は合わせてみた。ひどく息苦しかった。
「・・・かっこつけ」
「は?」
「今更かっこつけすぎだって言ったの。」
佑多は頬をおもいっきり叩かれたあとのような顔でこちらを見ている。
「何?」
「・・・」
「絶対そんなことで慰めないよ。いっつもそう。あんたってかっこつけすぎなのよ。皆じゃないよ。野球を終わらせてるのは佑多だよ。先輩たちはみんな何らかの形で野球と関わるとか、自分なりの区切りをつけて、また始まってる。無理やり終わらせて満足しようとしてんのはあんただけだったし、結局終われずにいるのもあんただけ。」
いつの間にか心が定まっていることに気づいた。ひとつの真実が私の決意を支えていたのだ。思えば、すごく簡単なことだ。
「私は、野球をしてる佑多が好きなの。私は佑多に野球をやってほしい。ぐじぐじしてる芸のないあんたなんか笑窪以外誰にも愛されないんだから。」
佑多がいきなり乗り出してくる。
「え、俺のこと好きなの?」
何をほざいているんだ、こいつは。
「野球をしてる佑多は好き。のびのびと自分の心に素直に向き合ってる人が好きなの。そんな人は多少性格とか顔が虚しい人でもバッチこいよ!」
「あぁ、そういうことか」
私はさっきの佑多と同じように大きく息を吸い込んだ。肺が満たされる感覚に、今度は不快など覚えなかった。
「もう少し甘えてもいいんだかんね、一応これでもあんたが三年のときのマネジだし、幼馴染だし、お隣さんの好じゃない。」
そっか、と小さな声は私の耳には届きはせず、私たちはただ窓の外を見つめ無言を守り通した。無駄に元気のいい太陽が、確かに季節を感じさせてくれていた。
結局私たちはその後すぐに店を出た。むせ返るような熱風を体内に取り込むと吐き気がしたので、浅めの呼吸を数回繰り返してうなだれて見せる。と、笑い声が聞こえた。
「本当暑いのに弱いな、亜矢は」
「あんたの頑丈な体とは出来が違うんですぅ」
「弱いなぁ〜」
「ナイーブといって」
傾いた太陽から降り注ぐ光は、さすがというかなんというかまだまだ眩しかった。でも今更、日に焼ける心配などするわけでもなし、こうもばんばんに浴びれるとなるとむしろ小気味いいくらいだ。
「そろそろ帰ろうか。佑多はこの後どうす・・・っ」
不意に私は熱いものが手に触れたのに気づいた。それが指に絡まってはっきり握ったとわかるまで強く力を入れられる。
それは佑多の手だ。大きな手が私の手をどう見ても握っている。
と、突然すぎるだろっ!あんた!
「な、何っ。」
「・・・ん。ちょっと甘えてる」
「・・・そ、そう」
この暑さとは違う、もっと生暖かい空気が私たちを包んだ。私たちだけがその空気の中で撫でられていて、なんていうのかな、無駄に青春してるような。
「誤解されるから、そろそろ離してくださいませんかね」
「あれ、お前彼氏いるんだっけ?」
「いなくて悪かったわね」
「悪いなんて言ってないだろ」
「だったら何なの」
「・・・もう少し甘えよーっと」
「げっ」
さらに手を握られて思わず蛙の潰れたような声を出してしまった。
「なんつう声出してんだよ、お前が甘えろっつたんだろ。俺がイケナイコトしてるみたいじゃねーか!」
わざとため息をついてみる。
「甘えるって場所を考えてよぉ。自己中だよね、相変わらず。あんたのことが好きって女子は絶対に本性見えてないわ。口だって悪いのに」
「人聞きわりーな、つかお前にはむしろ優しいでしょうが」
「えぇ、うっそだぁ」
佑多はめんどくさくなったのか「もぉ、いい」といってその手を離した。
「俺、大学に用事あるからいくわ」
「え、授業とかあったの?」
「あー、違う違う。忘れ物っつーかなんつーか。」
「ふぅん?そういえばどこの学部だっけ?」
「教育学部」
「絶対嘘!」
「なんでだよ、嘘じゃねーし!失礼だなお前」
「え?教師になりたいの?」
「・・・一応。」
「えー?高校教師・・・とか?」
「・・・一応。」
思わず、にやっと顔がほころぶ。幼馴染の思わぬ夢を聞いてしまった。ちょっとイタズラ心とかでてきそう。
「えぇ〜?なれるかなぁ、佑多が」
わざとだとわかったのか佑多の切り返しは早かった。
「まぁ、お前よか頭はいいかんな」
あぁ、しまった。むしろのせてしまった。こうなったら逃げるが勝ちだ。
「じゃぁ、私は家に帰ろーっと」
「ついてこねーの?」
「え、やだよ。」
こんなにやにやした顔の佑多を見て素直についていこうと思うほどいい経験はしてきてない。絶対にいじられる。
「お前だって将来の夢くらいあんだろ?大学見とくとやる気出るかもよ」
「私の夢はかっこいい、愛する人のお嫁さんなので心配後無用ですぅー」
我ながら恥ずかしいこと言ってしまったなと思った。あえてからかわれるネタを自らご提供とはやってしまった、墓穴。おそるおそる佑多に振り返る。と、なぜか顔が真っ赤な佑多がいた。
「・・・え、なんで赤いの」
「は、別に赤くは・・・。」
「まぁ、暑いもんね。」
そこは曖昧に伏せておく。追求するのはどうも気が引けた。
今度こそ別れを告げるためだろう、佑多は私のほうを見て、その真っ赤な顔ではにかんだ。いつもより一層深い笑窪と優しく笑う。
「今度、お前に会いに学校に行ってやるよ」
それは遠まわしだが私の誘いを受けてくれるということだった。
「もう少し、かっこよくなれるようにがんばるわ」
「うん。」
もう、自分と向き合おうとしている佑多が、十分にかっこよく見えたということは伏せておく。多分それではフェアじゃないだろう。
「あとは、まぁ、あれだよな。俺が無事に教員の免許とってさ、自分の夢貫いて、今以上にかっこよくなったら、嫁にでも貰ってやるよ」
「・・・えぇ、いい。やめとく」
「お前なぁ・・・!」
じゃあな、といわれたからバイバイ、と手を振った。
一足先に、背中を向けた彼の姿に感動してたことは内緒である。
さっきよりも傾いた太陽は、まだ眩しくて暑い。しかし、そのすべてに幸せを覚えてしまって思わず笑った。
「おかえりなさい」
誰かに聞かせるためではなく、自分のために呟いてみる。
そろそろ見えなくなった彼の背中に目を細め、とうとう私も歩き出す。その心地よさに咳払いをして瞳を閉じる。あぁ、暑い。
気づけばそこには、夏が待っていた。
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