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3万打記念
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「時は満ち足り。」

誰かが呟いた。視線を下げてもそこにはなにもない。本当はあるはずのものを勝手に空気と同化させて、見えなくする。手を伸ばせば捕まえられるのに伸ばせないまま躊躇う。今にも壊れてしまいそうで、手から離れていってしまいそうで恐ろしくなる。



跡部は部屋の窓から外を見ていた。頬を掠める風が冷たい。息を吐くと微かに白く気体が浮いて冬の訪れを告げる。何かを忘れているような気がしてなんとか思い出そうとするけれど、思い出してはいけないような気もする。なんとも言えない歯がゆさに跡部はギリと奥歯を噛んだ。

そんな時バタバタと小鳥が羽ばたく音がする。見下ろすとそこには小さな錆びた鳥籠。中には小さな白い小鳥。飛び立つ事を許さないように低い位置に置いてあるその鳥籠の中で、小鳥は懸命に羽を羽ばたかせて飛び立とうとしているようだった。

「………っ…。」

左手首の傷口が痛む。何本も横に入った生命を手放そうとした傷跡。赤く主張するようなその線は、しかし痛みばかりで何の現実も示さなかった。

俺はいつからこんな弱い人間になってしまったのだろう。跡部は考える。しかしその記憶さえモヤが掛かったように曖昧で苛立ちが増す。
手を伸ばしたらきっと届くだろう。ただ手を伸ばせばいいのだ。簡単な事だ。それなのにまだ手を伸ばす事が出来ない。

一体何に手を伸ばせばいいのだろう?

バタバタ、とまた小鳥が騒ぐ。次いでガシャリと鈍い音。錆び付いて開かなくなった扉が開いた音。小鳥はここぞとばかりに空へと飛び立つ。漆黒の空に浮き立つ美しき白。それをぼんやり見つめてはっとした。慌てて小鳥へと手を伸ばす。しかし小鳥は大空の自由を目の前に見て飛び立った後で、跡部の手は空に浮いて何も掴まずに浮いたままだった。自由に飛ぶ小鳥の羽に僅かに指先が触れたが、小鳥が一瞬こちらを見た気がしただけで何も起きなかった。


不意に部屋の扉が開いた。跡部は振り返る。そして振り返った後にドアから覗く人影に向けて跡部は強い笑みを浮かべる。モヤのかかった記憶は泡沫となり、崩壊した。





「時は満ちたり。」

誰かが呟いた。見上げればそこはプラネタリウム。青い空が映るはずの半球型の空は色を失って見えた。いつ君は思い出すのだろう。遠い君へ。

ここに閉じ込められてどれぐらい時間が経っただろう。狭いプラネタリウム。まるで鳥籠のようだ。扉はどこにもなく、ただ無機質な空が広がるばかりだ。まともな自由を与えられない景色のない場所。未だに跡部は記憶を取り戻さないまま窓の外を眺めているのを手塚は知っていた。何もかもを失った瞳が時折切なく揺れる事さえ見逃さない。何も出来ない自分に歯がゆさを覚え、それで尚、何も出来ないまま同じ景色ばかり見ていた。

跡部の崩壊が始まったのは手塚が事故にあったあの日からだ。不慮の事故だった。跡部は強い男だと手塚は思っていた。否、跡部は誰もが認める強い男だ。その男が一人の人間の為にここまで崩壊するほど、跡部は手塚を愛していた。その事実を知った時、手塚は嬉しいと思う反面、この世界から抜け出せなくなったのだった。牢獄の中に魂を閉じ込め、そっと跡部の側にいる事しか出来なくなった。

「跡部…。」

無機質なままの壁に手を付いて愛しい名前を呼ぶ。ふわりと手塚が空を見上げた。そして一瞬驚いたように目を見開き、次いで切なく瞳を細めた。長い時間ここに居すぎたのだろうか。手塚は気がついた。止まったままの針が動きだそうとしている事に。なにが原因かは分からない。世の中何がどうなるかなど分からないからだ。小さな何気ない行動の積み重ねが今という現実を生んでいくのだ。

ガシャンと派手な音を立ててなかったはずの扉が開いた。手塚は迷うことなく外へと足を進めた。扉を出たそこには強い微笑みを浮かべる男が立っていた。





真っ直ぐに手塚は跡部を見つめていた。跡部も手塚を真っ直ぐと見つめていた。久々の再開。しかし跡部からしてみればまるでつい最近の事だ。

手塚の姿を見た瞬間、記憶が全て蘇った。しかし、それは手塚を失う以前の記憶のみで、失った後の記憶は全て抹消されていた。


「時は満ち足り。」

不意に互いの声が重なる。呟いた声は二重になって響き、ふわりと浮いて消えた。小さく微笑んだ手塚に跡部は満足感を覚え、くっくっと笑った。

手塚はそっと跡部に手を伸ばす。そのまま自分より若干小さな体を抱きしめる。

「どうした?」

優しい声が手塚の耳元を掠め、暖かく細い手が頭を撫でてた。どうしようもないほど安心する。

「─────。」

言葉にならなかった。これからも時間が進み続ける跡部に告げる言葉などあっただろうか。もう時計は回ってしまっているから。遠ざかる、もう一度捕まえてくれた跡部に、最後の言葉を。手塚は視線の端に錆びた鳥籠をとらえ、瞳を伏せた。









「跡部?」

部屋に入ってきた眼鏡の男に呼ばれて跡部は振り返る。その男を視界に捉えて、しかしそれだけで跡部は無表情のまま再び空を見上げた。そんな跡部の様子を見て切なく微笑み、男は呟いた。

はよう記憶戻るとええのにな、と。

それが跡部にとって吉か凶かはわからないけれど。

床には錆びた鳥籠。白い羽がはらはらと舞い落ちていた。
それは現実か、幻想か。



Fin.


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あきゅろす。
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