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「今日は本当に楽しかった。ありがとう。」
「いや。こっちこそ。またいつでも遊びにおいで。」
「あぁ。また来るよ。…じゃあね。」
「じゃあな。」

軽く絡めていた手をそっと解いて幸村は不二から手を離す。ここが道端でなければキスのひとつでもしていたであろう。しかし誰がいつ通るか分からない場所であるが故に勿論そんな事は出来ない。代わりに幸村が軽く不二の頭を撫でる。不二は嬉しげに目を細めて、幸村に背を向けた。

暗闇に浮かぶような色素の薄い髪が靡くのを見つめながら、幸せを噛み締めて幸村も不二に背を向けた。普段なら幸村は不二を家まで、とはいかないものの最低でも駅までは送っていく。
しかし今回だけはそうはしなかった。引退した幸村にとって最後の練習が明日の朝からあるからだ。それを聞いた不二はならば送らなくて大丈夫だ、練習を大切にして欲しい、と。けれども遠くから来ている事もあって心配なのは幸村。そこで、お互いの意見を取り入れ、途中まで送るという結論に至ったのであった。

しかし、それは間違いだったのかもしれない。幸村がそう思うのに時間は掛からなかった。体がビクリと震える程のスリップ音。キンと響くような女性の悲鳴。脅え慄く男性の低い声。振り返ったそこには。

「っ…!周助――――…!」




真っ白な部屋。響く機械的で規則的な音。ここに再び来る日が訪れるとは思ってもみなかった。ベッドに横たわるは最愛の彼。包帯を痛々しく巻き、開かれることのない瞳が再び開かれる事を願うように幸村は不二の左手を強く握り、それを額に付ける。その温かさに不二が生きている事を実感しながらも、伝わってくる無機質な感覚に罪悪感と愛しさとが混り合って唇を噛みしめた。

無機質な感覚の正体は不二の小指にはシルバーリング。それはいつか幸村が不二に贈ったものだった。テニスをしている時は付けられないものの、それ以外の時は不二は必ずと言っていいほど身につけているものだ。家の遠い二人を繋ぐ唯一形となっている束縛を意味するモノとして。決して強制的ではない、幸せを意味する束縛として。

それなのに、そんな彼の手をどうして素直に離してしまったのだろう。どうして駅まで送り届けてやらなかったのだろう。何が出来たかは分からない。それでも、傍にいれば何か出来たかもしれない。不慮の事故だと簡単に片づけられるのだろうか。手術は成功したと言われても、命を脅かしたのは変わることのない事。実際不二は手術が終わってからまだ目を覚まさない。

「……どうして…。」

――どうして俺は、一番大切な人を守ってやれないのだろう――…

「精市。少しは寝てきたらどうだ?不二は俺が診ておこう。」

はっと幸村が顔を上げたそこには柳が花束を持って立っていた。そこにいた人物が青学のメンバーや不二の家族だったのなら…。いや、立海のメンバーだったとしても、柳以外の人間だったらきっと大丈夫だと、取り繕った笑顔で答えていただろう。幸村の全てを理解してくれる柳だからこそ、幸村は眉を潜めて強く強く不二の手を握り直した。

「悪い。今は周助の傍から離れたくないんだ。」
「……そうか。いや、俺こそ愚問を。すまなかった。」

沈黙にも等しい空間の中で、柳が花瓶を用意する音が浮き彫りになったように響いて。その音が終わりを告げた時、柳は幸村の肩をぽん、と叩いた。

「弱音なら聞いてやるぞ?」

優しく緩んだ表情でも冷たく突き放すような表情でもない柳の表情が、幸村の見開いた瞳に映る。冷静のみを浮かべた表情は「お前を理解しきっている」とでも言わんばかりに安心感を伝えて、やはり中学3年間傍に居続けてくれた人間なのだと。

「お…」
「お前は優しいな、と言うならそれは間違いだと思うぞ。」

ふ、と笑みを漏らして柳は幸村の言葉を遮る。当たり前の事をしているだけだ、と付け加えて。

そう。柳はずっと側に居てくれた。
誰よりも幸村を理解し、誰よりも力を貸してくれた。



だったら、……もしもだけど。



「俺の好きな人が蓮二だったら良かったのかもしれないな…。」

ただの戯れ言でしかないのだけれど。そんな事があるはずないのに。実際今幸村の心の大半を占めるのは不二で、愛しくて恋しくて仕方がないというのに。それなのに滲み出るような後悔が押し寄せて自信がなくなる。本当に不二を愛してよいのか、と。

「…せいい─」
「…っ…、…周助…?」

途端、柳の言葉を遮るように幸村が不二に声を掛けた。そして、ゆっくりと開かれる不二の瞼。


空気が止まって数秒。


「せ…‥いち‥‥…。」

弱々しく握り返してきた不二の指先。掠れた声。見え隠れする蒼い瞳。

「………ーーーー。」

声にならない幸村の感情。自分の情けなさと、安堵と、様々な気持ちが乱雑に入り乱れて強く強く手を握った。一方不二はそんな幸村をぼんやりと見上げて、ゆっくりと呼吸を繰り返した。







「…すまない。」

不二が病院に運ばれたと聞いて駆け付けた青学のレギュラー陣が、病室から出てきて一番に聞いたのは幸村の謝罪だった。廊下のベンチに腰掛けて俯いたまま顔を上げようとしない。そんな幸村に何が言える訳でもなく青学メンバーは困ったように顔を見合わせた。

「聞いたんだろ?周助の右腕の事。」
「…………。」

彼らの様子に確信をもった幸村はゆっくりと顔を上げて、しかし誰とも目を合わせようとせずに問い掛ける。彼らがそれに答えないのは肯定の意。
不二の怪我自体に命を脅かす事はなかった。しかし、テニスプレイヤーとしての命を脅かすのには充分すぎた。右腕の負傷。それはこれからもテニスをしていきたいと考えていた不二にとって大きなものだった。

「だ、だがリハビリすれば元に戻るんだろ?」
「そうだな。一応は。」

大石がフォローするように明るく口にした言葉を柳が曖昧に答える。

「なら、その分頑張れば…!」
「簡単に言わないでくれないか。」

さらに続けようとした言葉を全て口にする前に幸村が遮った。その言葉は酷く冷めきっていて、すぅ、と空気が固まる感覚をその場にいた全員が感じた。

「リハビリがどんなにツラい事か分かっているだろ?青学のレギュラーである君たちなら。」

全員の意識が一人の人間に向けられる。手塚は幸村をレンズ越しに見据えたまま「そうだな」とだけ答えた。どれだけ葛藤したか分からない怪我の克服。しかしそれは同時に幸村が幸村自身に言っている事だった。まるで自分自身を責めるようなセリフ。自分が経験したから分かるテニスが出来ないというツラさ。自分への無力感。後悔。それを自分のせいで最愛の人に経験させてしまうという悔しさ。

彼だけは守ろうと決めたのに。

どんな事があっても、どんなに自分が無力でも、

ただ彼だけは──。


なのに………。


「幸村。」

未だに視線を合わせようとしない幸村の視線を合わせさせるように手塚は呼び掛ける。ゆっくりと幸村が視線を上げたそこには、手塚の無表情。見下ろしてくる漆黒の瞳からは何も読み取れない。

「あまり不二を簡単に思うな。」
「………。」
「不二は強い男だ。」
「………───。」

どんな言葉が言い返せただろう。痛みを、苦しみを、それら一番理解している人間が『信じろ』と言うのだ。それでも作り出した罪は消えない。ふたつの感情が入り乱れて複雑に絡み合う。唇を噛み締めた幸村を見つめたまま、手塚はひとつ呼吸を置くと幸村に背中を向けてその場を後にした。そしてそれに続き青学のメンバーは去っていった。その場に残ったのは幸村と、幸村の隣に座る柳だけだった。




To be continue...



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