哂う、イヌ
5
それからすぐに担任と学年指導の先生が保健室に来て、治と坂本は教室に戻された。
聞かれたのはいじめが本当にあったのかということ、それから。
充が、慶に仕返しを頼んだのかということだった。
教室の空気が酷く重かった。
誰も充に近づいてこようともしない、誰も話しかけてこようともしない。
勉強は家でも出来るし塾もある、休んでもいいと母親は言ってくれたけど、それはやっぱり悔しいから、充は意地だけで登校していた。
遠巻きにひそひそとこちらを窺うクラスメートが目の端に見えて、充は顔を隠すように俯いた。
どうして、どうして、そればかりが頭の中をぐるぐると巡る。
充のせいじゃないのに。充が頼んだわけじゃない。なのに、どうして。
事実は捻じ曲げられ、最終的には充が慶を使って気に食わなかった安川を殴らせた、という話になってしまっていた。
当然充は否定した。何も知らない、と。
だが事実を知らない人たちは慶がそんなことをしたのは充が唆したからだろうと噂した。
元々慶を独占する充を周囲は嫌っていた。
なんであんな子が、どうして自分では駄目なのかと妬んでいたから、その噂はまるでそれが真実であるかのように語られた。
「ッ……」
少し前までは、普通に会話してた同級生が充を白い目で見る。
冗談だって言い合うこともあったのに、今ではクラスの誰も充と口を利こうとはしてくれない。
悔しさと、惨めさと、色々な感情がぐちゃぐちゃで今にも大声で泣き出したかった。
「ミツ、どうしたの?」
不意に影が落ちて充はハッと顔を上げて、すぐにこぶしを握り締めると俯いて目を閉じる。
全てをめちゃくちゃにした張本人は、それがなんだとばかりに平気な顔をして充の前に立っていた。
「ミツ、ね、顔上げて。ミツ?気分悪いの?」
「ッ……」
慶に下された処分は、反省文と安川への謝罪のみ。当然教師や親からきつく注意を受けたのだろうが、考えられないほど軽い処分だった。
教壇に立ち、心にもないといった風に言葉だけで謝罪した慶に、だがみんなは、安川はそれを受け入れた。
女の子の、しかも顔を殴ったというのに何故。何故そうして許されるのか充には分からなかった。
学校側も受験も近いことからなかったことにしたかったのだろう、充にも忘れて受験に集中しろと言って、それで全てが終わってしまった。
何も終わってなんかないのに、何もかもめちゃくちゃになったのに。
「ミツ?…まだ、喋ってくれないの?まだ、怒ってる?」
身を屈めた慶が、俯いている充の顔を覗き込むように机の前にしゃがみこんだ。
そしてふわりと、前髪を撫でられる。
「ッ…、触るな!」
「ミツ…?」
思わず手を叩いて払うと、周囲から充への非難が上がる。
どうして、どうして。
ぐるぐるといろんな感情が胸の中に渦巻いて、もう制御なんて出来そうになかった。
「お前の、せいだ…!誰も頼んでなんかない!一緒にいてくれなんか頼んでない!仕返ししてくれなんかッ…頼んでないだろ!……もうッ頼むから関わらないでくれ!」
椅子から立ち上がり震える声で怒鳴りつける充に、教室中がシンと静まり返る。
あまり目立とうとしない、大人しいというより自己主張の乏しい充のそんな姿に周囲は息を呑んだ。
「二度と、俺に近づくなッ!」
そう叫んで、充は静まり返った教室を飛び出した。
始業開始のチャイムの音がどこか遠くで聞こえる。
教室がある棟とは別の、視聴覚室や音楽室がある棟の3階、ほとんど使われない資料室の奥に身を隠すように座り込み、充は涙でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭った。
あんな風に叫んだのは、いつぶりだろうとぼんやりと思う。
言いたい事を言ってしまったからか、少しだけスッキリしていた。
ただ教室で感情を爆発させてしまったことが恥ずかしくて、でも誇らしくもあった。
やっと言えた、そう思った。
いくら慶でも、あそこまで言われたら充に近づこうとはしないだろう。
他の人にはもう分かってもらえないなら分かってもらわなくてもいい、どうせすぐ卒業で、きっとみんな忘れる。
何年かしたら、笑い話にだってなるかもしれない。
慶とも、いつかは笑って話せるようになるかもしれない。
今はただ、慶から離れたかった。
慶のことが、怖かった。
充の為に進む高校まで決めて、充の為に人を殴る慶が、知らない人みたいで怖い。
もう充が知っている慶じゃないような気がして、一緒に居たくない。
昔は苦痛に思うことなんてなかったのに、今では一緒に居ると息苦しくて居たたまれない。
周囲の視線も嫌だったし、比べられることも、蔑まれることも嫌で。
慶と一緒だと誰もが充をおまけのように扱う。
早く、一日も早く慶から離れて自由になりたかった。
充は座り込んだ姿勢のまま、ぼんやりと天井に視線をやる。
これで、慶から離れられる。
そう思った瞬間、カチャリという音が聞こえて資料室の扉がゆっくりと開かれた。
教師かと思って慌てて充はいくつも並んである本棚の影にかくれ、息を潜める。
こちらからは姿は見えないが、誰かが資料室の中に足を踏み入れたのが分かった。
教師に見つかったらきっと怒られる、そう思って充は口を両手で押さえ身を縮めた。
足音がすぐ近くを通る音が聞こえる。
「………」
足音は本棚の間を行ったり来たりしている、教師が資料を探しにきたのかと思った。
「ミツ、やっと見つけた」
「ッ…!」
聞きなれた声に、ぞわりと背中に冷たいものが走る。
ハッと振り返ると大きな体がすぐそこにあって、充は思わず後ずさった。
「探したんだよ、急に飛び出すから」
「な…なんでっ」
逆光で顔は見えないが、慶が笑っているのが分かる。
座り込んでいる充に目線を合わせるように慶がしゃがみこむと、ようやくその表情が見えてたまらず充は慶から逃げるように更に後ろに下がった。
慶は確かに笑っていた。
だけど口元は笑みをかたどっているのに、目は冷たく充を見据えている。
いつも優しく充を見つめる目が、今はまるで充を憎んでいるかのように冷たく凍えていた。
「どうして、逃げるの。ミツ、どうして…俺から離れようとするの?」
「や…やめろ。近づくなって言っただろ!」
じりじりとこちらへと寄ってくる慶をとにかく遠ざけたくて、この場から逃げ出したくて充は棚から本を取り出すと思い切りそれを投げつけた。
「ッ……」
「あっ…」
投げつけた本が慶の額に当たり、バサリと音を立てて床に落ちる。
それを逃げるのも忘れて眺めていた充に、慶の手が伸びて気づいたら腕を掴まれていた。
「離せ!」
二の腕を痛いくらいに掴まれて充は慶から離れようと抵抗した、だが慶はそれを押さえつけ充を床に押し倒した。
「慶!離せッ」
「どうして?どうして離れようとするの…。どうして、一緒にいてくれないの。俺のこと嫌いにならないって言ったのに」
充の両腕を押さえる慶の手が震えていた。だけどしっかりと押さえつける手は強くて、充など簡単にねじ伏せてしまう。
弱くて泣き虫だった男の子は、だがその強い力でもう小さな子供ではないのだと充に思い知らせた。
押さえつけられる痛みに顔をしかめ、影を落とした慶の顔を見て充はハッと息を呑んだ。
激情を湛えた眼差しが充を射抜くように見つめている。
苦痛を堪えるような、怒りを堪えるような眼差しに背中が震えた。
「嫌だ…、どこにも行かないで…。置いていかないで、ミツ」
「け…い、やめ」
「城田とか坂本はいいのに、どうして俺は駄目なの…。どうして他の奴傍におくの…、どうして他の奴と仲良くするの」
ぽたりと、冷たいものが充の頬を濡らした。
顔を歪め、ぽろぽろと涙を流して慶は泣いていた。
「け…、慶」
「嫌だ!近寄るななんて言うなッ…。ミツと、一緒にいたい…、お願いだから嫌いにならないで。ミツに嫌われたら…生きていけない」
身を屈めぎゅっと抱きついてくる慶に呆然としたまま、充は薄汚れた天井を見つめた。
今すぐ突き放すべきだと思った。
今離しておかないと、きっと後で後悔する。
だけどどうすることも出来ないまま、充はひたすら天井だけを見つめていた。
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