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落花流水
8



お前のせいだと、詰る声が聞こえる。
お前のせいで、人が1人死んだのだと。
それなのに何故、お前はそこで生きていると。
成花を責める。
そんな声が、暗闇の中でこだました。




何か恐ろしい夢を見ていたと思う。
だが目が覚めると何も覚えていなくて、痛む頭を堪えて成花は寝台から起き上がった。
翌日稜宮は昨日と同じように静かで、いつもと同じように朝になれば朝食が出され、女官が成花の髪を整える。
成花が嫌がった為にもう化粧を施されることはないが、髪は女性のように美しく結われた。
慶那もいつもと同じように成花の傍にいて、微笑みかけてくる。
そして朝食を終えた成花に慶那が今日着る着衣を見せた。
薄い紫の布の裾には流れる川とそれを泳ぎ渡る金の龍が刺繍で表現されていて、女性ならば一度は手を通してみたいと思うほどの美しい服。
だがそれを見ても、成花には何の感慨も浮かばない。
ただ着せられるから着る。
それだけだった。
そうしていつものように朝の支度を終えた成花は昨日宇壬に渡された絵本を手に宮の前庭に出て、長椅子に横たわるとそれをパラパラと開いた。
干支の由来を描いたその絵本を捲り、時間が経つままに過ごす。
いつしか時刻は昼をさし、女官達の手によって昼食が運ばれてくる。
1人で食べる味気ない昼食、一口二口含むともう食欲も失せてしまった。
「成花様、もう少しお食べください」
「もう・・・・・食べられないのです・・。 食欲がなくて」
そう言うと、唇をぎゅっと噛み締め泣きそうに顔を歪めた慶那に成花はどうしたのかと問うた。
「いいえ・・・・、なんでもございません・・・・・・。 ですが、あと少しでもよいのです。 食べてはいただけませんか?」
震えた声を絞り出した慶那を心配げに見上げると、にこりと微笑まれる。
それが、いつもとは違って見えて成花はじっと慶那を見つめた。
だが再度どうかしたのかと聞こうと思った成花は、女官に導かれて現れた壮年の男に眉を顰めた。
文官が着る黄色の着衣に身を包んだ男は、いつもの見慣れた宇壬ではない。
「先生が見えられましたよ、成花様」
「・・・・先生は? 私の先生は、宇壬さんでしょう?」
突然現れた文官は宇壬とは違い、どこか厳しそうで恐そうで、思わず成花はそう言って俯いた。
宇壬は優しくて穏やかで、一緒にいても恐くはなかった。
「ッ・・・宇壬は・・・」
「宇壬殿は急なお仕事が出来て王宮を離れられたのですよ。 確か、ええと・・・・そう! 西の帯聯(タイレン)に赴かれたとか」
文官が何かを口にしようとすると、慶那が慌てた仕草で間に入り成花に絵本を渡した。
「宿題は出来たのでしょう? 成花様。 こちらの、新しい先生に読んであげてくださいな」
割って入った慶那に文官は一瞬ぐっと顔を強張らせ、だが不意に力を抜くと作ったように成花に笑って見せた。
「成花様、私は文官の了准(リョジュン)と申します。 これより成花様にお教えさせていただきます」
「了准・・・・先生? 宇壬さんはもう戻ってこないのですか? 私、朝ちゃんとこの本を読んで、覚えたのに・・・」
遠くへ行ったと聞かされて、成花は自分がどれほど宇壬に懐いていたのかを知った。
初めから優しくて、成花を怯えさせないようにいつも穏やかな口調だった。
ひとつ文字を書けるごとに良く出来ましたと褒めてくれた。
項垂れた成花に慶那の瞳が涙で潤む。
それを隠すように慶那は成花から体を背け了准と成花の為にお茶を淹れはじめた。
「宇壬は、大切な仕事を任されたのです。 ですから・・・・・こちらには戻ることはないかもしれません・・・・」
搾り出すように呟かれたその声に顔を上げると、了准が酷く苦い顔をしていた。
そして了准は机に数枚の紙を広げ、そこにすらすらと言葉を書き連ね成花に見せる。
「子曰。學而時習之。不亦説乎・・・・今日はこの文を覚えましょう」
突然難しい言葉を見せられ、成花は戸惑ったように机の脇に立つ了准を見上げた。
まだこんな難しいところまで進んではいないのだ。
それにこれは今となっては使われていない古い文字だ。
「私・・・・分かりません。 やっと、この絵本が読めるようになったくらいで・・・・」
宇壬ならば成花に合わせてくれていた。
幼児なみの学力しかない成花に嫌な顔ひとつせず、根気よく教えてくれた。
だが了准はおずおずとそう答えた成花に眉を顰め、小さく溜息を吐く。
「皇帝陛下の貴妃様ともあろう御方が、絵本とは・・・・・」
「了准殿ッ!」
ビクリと肩を震わせた成花に声を荒げた慶那があっと口元を押さえ、だが厳しい顔をして了准を諌めた。
「了准殿、成花様にそのような言葉を向けられるとは。 陛下を愚弄されておられるのと同じことですよ」
「っ・・、申し訳ありません。 成花様」
慶那に言われて渋々といった風に頭を下げた了准は難しい文字を書き連ねた紙を机から奪うように取り上げ、それをぐしゃりと握り締めた。
どうやら、嫌われているようだと思って成花は胸に痛みを感じる。
やはり成花のような身分の低い者を貴妃と認めたくない人もいるのだろう。
それは、仕方がないと思う。
「ごめんなさい・・・・」
気を抜いたら泣き出してしまいそうで、成花は両手を強く握り締め唇を噛み締めた。
そして椅子から立ち上がり、前庭が見えるところに立つと慶那を振り返り。
「あの、今日も外に出てもいいですか? 白木蓮を見に行きたいのです」
あの木が見たい、というのはもちろん本当のことだったが、それ以上に昨日出会った汪嗣にもう一度会いたいと思った。
あの寡黙そうな若者が、笑うところを見たい。
あの優しげな鳶色の瞳がもう一度見たい。
思い出すと不思議な温かさが胸に宿る。
「いけません。 陛下が、お許しになりません」
だがそう言われて、成花は潤んだ瞳を大きく見開いた。
だって、この宮は。
この稜宮に住む貴妃は皇帝の許しがなくとも外庭に出てよい決まりのはず。
「成花様は陛下にとって、特別な御方です。 あまり人の目に触れさせてはならないと言われております」
「そんな・・・・・・」
皇帝の命は絶対だ。
では、あの鳶色の瞳をもう一度見ることは叶わないのか。
まだ笑った顔を見ていないというのに。
それが酷く残念で、微かな胸の痛みを感じる。
成花は榮植に会ったら外庭に出れるように頼んでみようと思い立ち、きっと榮植は許してくれると思った。
だって、いつだって、榮植は成花の願いを聞き届けてくれる。
榮植は、成花にとてもヤサシイのだから―――――――。
「成花様、さぁ机にお戻り下さい」
慶那に促され席に着いた成花にまた了准の溜息が聞こえた。
それだけで身体を縮ませてしまう成花に了准は宇壬から渡された絵本を指差し、読むようにと言う。
だが朝はすらすらと読めたはずのそれが、何故か咽喉に引っかかり声が出ない。
目は文字を読んでいるのに、声に出して読むことが出来ないのだ。
それは成花が了准を怖がっている為なのだが、了准はそんな成花に眉を顰めまた溜息を吐いた。
「宇壬の努力も無駄だったようですね。 こんな絵本すら読めないのですか?」
「あ・・・、ご・・・・ごめんなさい・・・・・」
成花のことだけでなく、成花の為に頑張ってくれた宇壬の為にもきちんと読みたいのに声がうまく出せない成花の瞳に涙が浮かんだ。
泣いてはいけない、読めるはずなのに読まない自分が悪いのだからと言い聞かせればそうするだけ涙が溢れてくる。
「成花様、慌てずともよいのですよ。 ゆっくり、読んでみましょう?」
「慶那さん・・・・」
優しく諭す慶那の声に励まされ頷いた成花にホッと息を吐いて、慶那は脇に立つ了准を睨み付ける。
だが了准は冷たく成花を見据え、眉は顰められたままだった。




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