落花流水 7 慶那と宇壬に挟まれて宮に戻ると、確かに榮植が稜宮に来ているようで宮の中は慌しかった。 「それでは、また明日お目にかかります。 宿題お忘れなきように」 宮に帰り着くと胸に絵本を抱き締めたままの成花にくすりと笑い、宇壬は年の離れた弟にするように自然と頭をなでてくれた。 捨て子で、兄弟のいなかった成花はそれに照れたように口元に笑みを浮かべ、優しい先生である宇壬を見上げた。 兄がいたら、こんな感じだろうかと思った。 ただそれだけだった。 だがその時浮かべた笑みが、王宮に連れてこられてから初めて浮かべるものだったとは成花自身にも分かっていなかったのだ。 庭に出て、懐かしい木を見て、そして汪嗣に出会って。 少し浮かれていたのかもしれない。 「捕らえろ」 だから、突然低く怒りを含んだ声が聞こえた時、成花は何が起こったのか分からなかった。 後ろから聞こえたその声に振り返ると、榮植が体中から禍々しい程の黒い怒りを発して立っているのに、抱き締めていた絵本が床に零れ落ちた。 そして響き渡る叫び声。 「え・・・・?」 何事かと思うと現れた兵士によって宇壬が拘束され、床に押さえつけられていた。 「せ・・・・・先生?」 「あれはもうお前の先生などではない。 成花、もうこれが読めるようになったのか? 寝所で、俺の為に読んでもらおうか」 後ろに立った榮植が成花の小さな身体を抱き寄せる。 成花の足元に落ちた絵本を拾い上げ、手に持つといつも成花を怯えさせる冷たい微笑を見せた。 「手足を切り落とし、獅子の檻に放り投げよ」 数人の兵士に取り押さえられた宇壬の顔色が、見る見る青褪めていく。 それを見ていた成花は、榮植の放った言葉にヒッと慄いて宇壬に駆け寄ろうとした。 だが当然、それは榮植によって阻まれその腕の中に抱き込まれる。 「榮植様、何故・・・・。 先生はっ・・・・」 捕らえられ床に押さえつけられている宇壬が顔を歪め、震える成花を見つめた。 女官達はこの状況に恐れをなし、榮植のいらぬ怒りを買わぬようにと隠れてしまっている。 ただ慶那だけが、青褪めたままその場に立ち尽くしていた。 「決して触れてはならぬと、申し渡しておったな。 宇壬?」 宇壬をまるで、床に落ちている塵のように見て榮植はくつくつと笑った。 その笑いが、また恐怖を感じさせる。 「榮植様・・・・・。 どうか、どうかお許し下さい・・・・。 どうか・・・・・」 後ろから抱かれたまま震え泣いている成花をぐっと強く引き寄せ、榮植は「連れて行け」と冷たく言い放つ。 「榮植様っ・・・・・!」 「庇うのか? たかだか文官1人、お前には他の者をつけるから安心しろ」 そうではない、そうではないのだと首を振る成花を見下ろすだけで榮植は何事もなかったかのように小さな身体を抱き上げた。 「榮植様、どうか・・・・・。 このような酷いこと・・・・・」 とうとうしゃくりあげ、泣き出した成花に榮植が眉を寄せる。 苛立たしそうに口を歪め、泣いて宇壬の助けを請う成花の顎をきつく掴み涙で潤んだ藍の瞳を見据えた。 「文官の為に泣くのか。 文官にならば笑いかけるのか。 お前は俺の貴妃だ、俺にだけ笑えばいい。 俺の為にだけ泣けばいい」 温かいから、外に出ましょうかと優しく言ってくれた宇壬の顔が浮かぶ。 よく出来ましたと褒めてくれる穏やかな口調が、まざまざと脳裏に過ぎる。 昼に会い、庭に出るときにどうしてこんな風になろうと誰が予測できただろう。 久しぶりに外に出れて、また宇壬に褒めてもらえて、嬉しかった。 だのに、宮に戻るとそれは全て打ち崩されてしまった。 「私は・・・・私は貴妃などではありません・・・・。 私は、ただの成花です・・・・。 私は、ただ嬉しくて・・・・、先生が教えてくれたから、やっと・・・・やっと本も・・・・・」 「明日からは別の人間をつける。 今度はもっと忠実な奴をな」 榮植は抱き上げた成花を寝所に連れて行き、寝台の上に座らせると泣きじゃくる成花の濡れた頬を指で拭う。 そして持っていた本を成花の膝に置くと、隣に寝転がり細い腰に腕を回した。 「ほら、泣いていないで読んで聞かせろ。 もう読めるのだろう」 言葉が、伝わらない。 宇壬の手足を切り落とせと残酷に命じた同じ口で、絵本を読んでみろと言う。 宇壬のことを忘れたようにゆったりと寛ぐ榮植が堪らなく怖ろしかった。 「どうか・・・。 お許しくださいっ・・・・。 先生を殺さないでっ」 すでに宇壬は連れていかれたのだろう、先ほどまで騒がしかった宮は今しんと静まり返っている。 急がなければ、殺されてしまうと焦る成花に榮植の手が伸びた。 「っ・・・・!」 高く結い上げた髪を掴まれ、引き寄せられて胸に倒れ込んだ成花を冷ややかに見て、榮植は唇を深く合わせた。 「お前を獅子の前にやるわけではない。 お前が気にすることはなかろう?」 「そっ・・・・・、そうではありませんっ。 あのくらいのことで処刑など、そのような非道なことをっ!」 思わずカッとなった成花は、表情を変えた榮植にひくりと咽喉を引き攣らせた。 バンッ・・・・と榮植の大きな手が成花の頬を打つ。 「俺に、逆らうな。 たかが文官の為に、この俺に刃向うのか・・・・」 たかが文官と榮植は言う、だが人間だ。 成花と、そして榮植と同じ生きている人間なのだ。 だけど、それが榮植には分からない。 伝わらないのだ。 「人は・・・・、物ではありません・・・・。 例えどんな理由があろうと、簡単に殺してはいけません!」 「煩い」 また頬をはり倒され、成花の赤い唇が切れて血が滲んだ。 それでも泣きながら真っ直ぐに見詰めてくる成花の眼差しに、榮植が舌を打ち鳴らした。 「俺に、命令するつもりか。 成花」 「・・・・いいえ、いいえ。 そうではありませんっ・・・。 どうかっ」 殺してはいけないと、そう訴える成花の言葉が榮植にはきっと理解できないのだ。 榮植はそうやって生きてきた。 殺すことが当たり前で、そうすることが出来る地位にあって、人の命の重みなど露ほども知らない。 「・・・・来い、成花」 突然榮植が成花の腕を掴み、寝台から引き摺り下ろす。 稜宮を出て、孔真宮を通り抜け、王宮の奥深くへと突き進んで行く榮植に引き摺られたまま連れていかれたのは囚人が繋がれている薄汚れた暗い建物だった。 まるで厠のような饐えた匂いが立ち込め、石でつくられたそこは冷たい空気が流れている。 建物の中は広く、壁には囚人を繋ぐ為の鎖がいくつも掛けられていた。 今は囚人がいないのか、そこはがらんとしていて汚れた器が床に転がっている。 石の壁には血がこびり付いたように赤茶けていて、吐き気を感じて成花は口元を押さえた。 「榮植様・・・・」 腕を掴んだまま榮植は建物の奥へと向う。 奥の壁には鉄で出来た扉があり、開くと更にきつい血の匂いが漂ってきた。 「っ・・・・・」 「見ろ、成花」 気を失いそうに血の気の薄れた成花の顔を掴み、中を見るようにと扉の中に押し込められる。 「ヒッ・・・・!」 扉の中の部屋は、床にびっしょりと血が流れていた。 数人の覆面を被った男が、何かを囲んでいる。 「あ・・・・あ・・・」 男達の手には、鋭く厚い刃物があり、血が滴り落ちていた。 そして男達が囲んでいたそれが、小さく身じろいだ。 「・・・せ・・・んせ・・・・?」 手足を切断され、汚れた石の床に転がされた宇壬はとうに正気を失っているのかその目はまるで魚のように濁っていた。 腕も足もなく、そこからは大量の血が流れ出している。 口からは血と涎が流れ、泡立っていた。 「・・・ひっ・・・や・・・・」 「成花、俺に逆らうな。 もうこんなものは見たくないだろう?」 「せ・・・んせ・・・・。 先生っ・・・!」 後ろで今にも倒れそうな成花を支えていた榮植の腕を払い、男達をかき分けて宇壬の元へ駆け寄ると、血に塗れたその身体に手を伸ばす。 血が流れる床に跪いた為に成花の白い衣服が赤く染まった。 「先生・・・・、ごめんなさい・・・・。 ごめんなさいっ・・・・・!」 「成花!」 伸ばした手が宇壬に触れる前に、榮植に抱き上げられた成花は身体を捩り宇壬の元へ行こうと暴れだした。 「成花! 汚れるから近づくな」 「汚れる・・・・? 何に汚れると言うのです? 私は、とうに・・・・汚れてしまっています。 私のせいで・・・先生はこんな目に合わされて・・・・っ」 気が触れたようにそう叫んだ成花を抱き上げた榮植が目を細める。 そして成花を抱き上げたまま宇壬を見やり、冷たく見据えて男達に命じた。 「獅子に喰わせてやれ。 骨すらも残すな」 「っ・・・・・!」 手足のない宇壬を男達が担ぎ上げる、室内の奥に黒い布が被さった大きな四角い何かに近づくと、布がさっと剥がされた。 「いやっ・・・・・! お願いやめて! 榮植様!」 黒い布を剥がすと、大きな檻が現れそこには飢えたように涎を垂らす2匹の獅子の姿。 檻の上の柵が開かれ、血の匂いに呼ばれるのか獅子が立ち上がって唸り声を上げた。 「い・・・・や・・・・・。 こんな・・・・こんなこと・・・」 「さあ、戻ろうか。 成花」 ガタガタと震える成花の瞳を片手で覆い、榮植は踵を返した。 閉ざされた視界の中で、成花はひと際大きく悲痛な断末魔を聞いたのを最後に意識を失っていた。 薄れる意識の奥で、優しく笑う宇壬の顔が浮かんで消えた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |