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落花流水
20



小さな机に置かれた料理は、確かに王宮で食べていたような豪華なものではなかったが温かくそしてやはり懐かしかった。
香辛料は高価で中々手に入らないから、成花の村でも味付けはほとんど塩のみだったし酷い時には食べるものもなく空腹を水で満たしたこともある。
芋を焼き、畑で取れた野菜だけがご馳走だった。
肉など滅多に食べられなかったし、白いご飯なんてお祝いの時でもあまり出ることはない。
宿の女主人が持ってきてくれた温かい湯麺を口に含むと、不意に目の奥が熱くなって成花は箸を置き両手で胸を押さえた。
「成花様?」
その様子を見ていた汪嗣が心配そうな顔をしているのに、成花は笑みを見せ眦に浮かんだ涙を指で拭い去った。
「汪嗣、私は貴妃じゃありません。 ただの成花です。 貧しい農村に育ち、教養も何もない人間です。 だから、もうその呼び方はやめませんか?」
円卓を挟んだ向こう側で成花の言葉を聞いていた汪嗣が軽く目を瞠り、そしてゆっくりと体の力を抜くように息を吐き出した。
成花が見つめていると、汪嗣も箸を円卓に置きまっすぐに見つめ返してくる。
「成花・・・・」
静かな、深い声音が耳に届き、知らず胸が震えた。
誰かに名を呼ばれることなどこれまでにもいくらでもあったはずなのに、どうして汪嗣に呼ばれるとこんなにも胸に響くのだろう。
目を潤ませて微笑む成花の名を再度呼び、汪嗣は椅子から立ち上がると成花の前に跪き手を取りと両手で優しく握り締めた。
「必ず守ります。 何があろうと、お傍を離れません」
そう言うと握っていた成花の手の平に口付けを落とし、そしてまた強く握り締めた。
鳶色の優しい色が見つめてくれているのが、堪らなく嬉しくて。
こんなに近くにいられることが、怖いほどに幸せだった。
自分の手を握り締めている汪嗣の両手に、もう片方の手を重ね成花は微笑んで頷いた。
そしてゆっくりと汪嗣が体を伸ばし近づいてくるのに、目を閉じると温かな感触が唇に触れた。
「成花様・・・、成花・・・・」
成花の頬を両手で包み、汪嗣が何度も何度も名前を囁く。
その度に心から汪嗣への愛しさが溢れてくる。
髪を撫で、頬を撫でてくれる指が心地よくて、うっとりとそれに浸っているとまた口付けが落とされた。
「汪嗣・・・・、貴方が好きです。 愛しています」
目を開け真っ直ぐに見つめると、汪嗣は酷く苦しげな表情をして成花を強く抱き締めた。
大きな体が震えているような気がしてその背に腕を回し胸に頬を寄せると、汪嗣が軽く息を詰める。
「汪嗣?」
「今でも信じられないのです。 こうして抱き寄せているのに、現実とは思えなくて・・・・。 夢を、見ているようです」
詰めていた息を吐き、汪嗣が更にきつく成花を抱き締めた。
「愛しています。 愛しています・・・、汪嗣」
背中を抱き締め、そう繰り返す成花に今にも崩れそうな顔をして汪嗣は必死に泣くのを堪えた。
とても同じ性だとは思えない。 他のどんな貴妃よりも高貴に思え、恋焦がれた人が今腕の中にいる。
花の名が知りたいと、嬉しそうに笑う顔が好きだった。
手の届かない遠い人だと分かっていても、焦がれる心はどうしようもなかった。
ただそれでも成花が幸せであるなら、それでいいと思っていた。
遠くからそれを眺めていられるのならそれでいいと。
成花が笑っているならそれが己の幸せと、そう思っていた。
成花の為に庭を花で埋め尽くしてやりたい、喜んでもらえるならどんなことでもやろうと思って、身分も弁えず1人浮かれていた。
皇帝が唯一心を寄せる寵妃に邪な思いを抱く己を浅ましく思いながら、どんな花を植えようか。
どんな木を好むだろう。 そんなことばかり毎日考えていた。
成花が幸せそうに微笑むなら、それで汪嗣もまた幸せな気持ちになれる。
そして今、腕の中にいる成花が笑っているから。
幸せそうに笑っているから、汪嗣はそのためなら命を捨てても構わないと思えた。
「愛して・・・・います。 成花」
微かに声が震えてしまい、汪嗣はそんな己に苦笑すると顔を上げた成花に静かな口付けを落とした。




数十の馬の蹄の音が闇の静寂を打ち破る。
もうもうと砂塵を巻き上げながら皇帝の兵達が馬を走らせ、その中には榮植その人の姿もあった。
榮植は狂気に満ちた、まるで鬼のような形相をして兵士と共に馬を走らせている。
「逃がさぬ・・・。 決して・・・・、どこへもやらぬ」
ぎりぎりと奥歯を噛み締め、己の内で荒ぶる怒りに打ち震えながら榮植は手綱を握り締めた。
和子が誕生し、皇妃が立后した為に祝典が開かれたった1日王宮を離れた。
まさかその間に成花が逃げ出すなどと誰が想像出来ただろう。
早めに祝事を終わらせ明け方稜宮に戻ると、そこに成花の姿はなくまるで元から存在しなかったかのようにしんと静まり返っていた。
すぐに王宮内を虱潰しに捜索させたが、どこにも成花の姿はなく慶那も見当たらなかった。
一瞬榮植は成花が連れ去られたのではと考えた、だが王都の外れにある村で成花と庭師の男らしき者を見たと聞くに至って、榮植は2人が手を取り合って逃げたのだと知った。
怒りが全身を駆け巡り、気が狂ったようにそのまま兵士を連れ王宮を飛び出した。
決して、どこへも逃がさない。
例え宣羅から離れ他国へ逃げたとしても、必ず見つけ出す。
成花を奪った庭師は。
成花は・・・、成花の心は壊してしまおう。
二度と誰かに連れ去られぬように、二度と誰にも触れられぬように。
もう心などいらぬ。
その身だけでも傍に留められるならば、心などもう望まぬ。
「あれは・・・・俺のものだ」
血走った目で真っ直ぐに前を見据え、榮植は寄り添い合う2人を不意に思い浮かべ堪らず唇を強く噛み締めた。
ぶつりと唇が切れ、口の端に血が滲んだ。
誰にも渡さない。
殺してでも絶対に、誰かの手に渡るのだけは許さない。
愛しているのだ・・・・、成花を。
他の男になど、決して渡さない。
常軌を逸した己の成花への執着など、とうに知っている。
そしてその執着故に罪もない者を死へと追いやり、成花の心を己から遠ざけた。
だが例え同じ間違いを繰り返そうとも、成花を心のない人形に造り替えてでも傍に置く。
榮植は兵士を休ませることなく、成花と汪嗣が向かったであろう方角へ馬を走らせ続けた。




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