落花流水
2
ピチャン…とどこか遠くで水音が聞こえた気がした。
実際に成花は広々とした湯殿に入らされていたようで、目が覚めると髪を洗われている最中だった。
ぼんやりとした意識のまま髪を触る感触に後ろを見遣ると、まだ若い女性が茶色の服を着たまま湯殿の脇に座り込み成花の髪を洗い流している。
ふと自分を見れば当然全裸で、慌てて身体を縮ませた成花に後ろからくすりと笑う声が聞こえた。
「緊張なさっているのですね? ご安心下さい、後宮に居られる何方よりも美しくさせて頂きます」
「あの…1人で入れますからっ、出ていっていただけませんか?」
もうすぐ16歳になる成花も外見がどんなに男らしからぬとはいえ、若い女性に裸を見られて平気ではない。
恥ずかしさに顔を真っ赤にした成花に女官はまた笑い、綺麗に洗い流した髪に満足したように撫でた。
そして髪から手を放すと湯殿の脇に膝をついて籠から色々な種類の花弁を撒き散らした。
途端にふわりと鼻腔を擽る花の香りが充満する。
女官は花弁を撒き終えると成花に頼まれたからか初めからそうするつもりだったのか何を言わず湯殿を出て行った。
「………」
1人残された成花はあれが夢ではなかったのだと、確かに今夜成花はこの国の皇帝陛下の寝所に召されるのだと実感して身体に戦慄が走る。
逃げたい、そう思ったところでどうなるものでもないと分かっているのに。
今にも逃げ出したくて、恐くて気が狂いそうだ。
何の戯れか皇帝は今夜の伽に成花を指名した。
男だと分かっているのに、何故……。
謁見室にはたくさんの美女がいた。 皆皇帝陛下に召されることを願っていたはずだ。
成花はそんなことを望んではいない。
望むのは、出来るだけ平穏な未来だけだ。
だが皇帝に召された以上、成花にそれはもう望めないだろう。
たった一夜の夜伽が、成花の運命を大きく変えることになる。
「長さま……、長さま…」
父と呼べる人の名を呼んでみても、恐れは消えなかった。
温かい湯に浸かっているのに、体中が凍えてしまいそうだった。
湯殿を上がると数人の女官が待ち構えていて、小さな台に寝転がされた成花の体に香油が塗りたくられた。
甘い香りのする香油を全身に塗り、嫌がる成花に無理やり薄化粧を施した女官は出来上がりに大きく頷いて仕上げとばかりに唇に紅を引こうとした。
「紅は塗らないでいいでしょう、陛下はあまり紅のお味がお好きではありませんし」
女官の中でも古株なのだろう、少し年のいった女官がそう言うと紅を引こうとした女官は手を止め、今度は髪を櫛で梳きはじめ、ふっと小さく溜め息を吐いた。
「なんてお綺麗な髪、こんな色は見たことがありません」
薄い茶色の髪は確かに宣羅では珍しいかもしれない、だが少ないわけでもない。
そうした人のほとんどが隣国の慶乎からの移民で、多分成花の両親もそうだったのだろうと長が言っていたのを思い出す。
女官が結った髪に宣羅の国花である百合をつけると、今度は薄い布の衣装を着せられる。
白く薄い布には小さな花と龍の刺繍が縫われ、薄っすらと体が透けて見えていた。
裾が床に流れ、波を作っている。
伽に向かう貴夫の出来上がりだ。
これが、女性であったならば。
成花は女官に導かれるままに赤い柱の並ぶ広い廊下を歩いた。
向かう先は皇帝陛下の住居である孔真宮。
成花にはこの赤い回廊が永遠に終わらなければいいのにと、どこかぼんやりとした頭で考えた。
いつのまにか外は暗く、廊下には赤い蝋燭に火が灯されている。
この蝋燭の火は夜の間決して消してはいけないという。
皇帝陛下がお通りになられる廊下を常にこの赤い蝋燭の火で照らす、もしも消えているのに気付けず放置していた場合、宿直の兵士は死刑に処される。
「成花様、こちらです」
先を歩いていた女官が突き当たりの扉を示した。
やはり赤の大きな扉があり、木枠は金で作られ10匹の龍の絵が描かれている。
10匹の龍は皇帝の印。
この先が、孔真宮なのだ。
「成花様」
立ち止まった成花を促す声に足を踏み出そうと思っても、体が強張り動けなかった。
手足は冷え、唇は恐怖に震えている。
「成花様、中に入られましたら決して、決して陛下を拒否するような言動をしてはいけません。 何があろうと、どんな扱いを受けようと陛下に否と言ってはなりません。 よろしいですね?」
無情にも女官は立ち竦んだ成花の腕を掴み、開かれた扉の中へと押し込めた。
「嫌……」
思わず隣に居た女官の腕を掴み縋った成花の指を外し、湯殿で髪を洗ってくれた彼女は少しだけ痛ましそうに目を細めると励ますように微笑んだ。
「大丈夫です。 怖いことはありません。 成花様ならばきっと陛下の寵愛を賜れますわ」
扉の向こう側に通された成花を力づけるように強く頷いた女官は、伽を終えた成花が帰ってくるのを待つためにその場に膝をついた。
扉が閉められ、女官の姿が消えると今度は孔真宮付きの女官が待ち受けていた。
「陛下はまだ政務の最中でございます。 成花様は寝殿でお待ちするようにと」
もう逃げられない。
皇帝陛下の住居である孔真宮は侵入者を警戒してどの宮よりも警備が厳しく、また入り組んでいて宮の内部を知る者でなければ脱走することは不可能だった。
孔真宮の女官に連れられ、榮植の寝所へと入ると漆塗りの椅子とテーブルがありそこに座るように指示された成花は倒れそうになりながら腰を降ろした。
今にも気を失ってしまいそうなほどの緊張と恐怖が成花を襲う。
心臓がどくどくと音を立てて鳴り、静かな空間では外に聞こえてしまうのではと思うほどだった。
恐かった、ただただ恐くて死にそうなほどに恐くて。
粗相があればその場できっと切り殺されてしまう。
それだけならまだしも、悪くすると成花を貢物とした村までもが皇帝の怒りを買うかもしれない。
そう思うと堪らなく恐くて。
お茶を出した女官がいなくなると堪えきれずに一人成花は涙を流した。
「長さま…、長さま」
帰りたい。
村に帰りたい。
繰り返しそう願った成花は、それが叶わぬ夢だと分かっている。
だが願わずにはいられない。
覚悟して村を出た、二度と帰れないと分かっていてここに来た。
だがまさか成花が皇帝の寝所に侍ることになろうとは、誰が想像できただろう。
貢物として献上された以上、村に帰ることはおろか今後普通の生活を送ることすら出来ない。
現皇帝陛下である榮植が崩御するまで、成花や他の貢物達は自由にはなれないのだ。
榮植が崩御すれば次代の皇帝が王位につく。
そうなれば前皇帝の為に献上された皆は王宮から出される。
前皇帝の手のついていない人間であれば、自由になれるのだ。
だが成花は、今夜榮植の寵を賜る。
例え榮植が崩御しても成花は自由にはなれないだろう。
「長さま、長さま…帰りたい。 成花は村に帰りたい…」
それからどのくらい時間が経ったのだろうか。
謁見室で聞いたのと同じ大きな太鼓の音が鳴り響き、皇帝のおなりを知らせた。
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