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落花流水
19



慶那が言った通り商人が出入りする裏門に警備兵の姿は見当たらなかった。
一体どういうことかと不思議に思いはしたが、今はとにかく王宮を出ることが先決と汪嗣は成花の手を引き門の鍵を開けると勢いよくそこを飛び出した。
再び門を閉め走り出した汪嗣に引っ張られるようになりながら成花は王宮を振り返る。 次にもしここへ戻ることがあるとしたら、それは死ぬ時なのだ。
だが怖いという気持ちはなく、ただ嬉しかった。
汪嗣に手を引かれ、遠くへ行ける。
もう何も怖くはなかった。
長く育ててくれた村の長の思いを裏切り、愛し慈しんでくれた榮植を裏切る己の業の深さを思うと死の後浄土へと赴くことは決してないだろう。
だが奈落迦に落ちたとしても、どんな責め苦を負おうともこの瞬間の喜びを思い出せばいい。
汪嗣に手を引かれている今のこの時を、いつまでも覚えていたい。
王宮から王都へと繋がる道から反れ、真っ暗な山道へと入り込んでいくことも怖いとは思わなかった。
王都へと繋がる整備された道には途中警備兵が立っていることがあるらしく、山道を回り王都を抜ける他道はない。
2人は数時間かけて山道を通り抜け、王都の端にたどり着いた時にはすでに陽が昇り始めていた。



王都の端に位置する緑南という村、そこに店を構える李を訪ねるとすぐに大きな馬を一頭手渡された。
水瓶と少しの食料を積んだその馬の代金はすでに支払われているらしく、李は馬を引き渡すとすぐにここも発つようにと2人を促した。
馬に跨り緑南を発つと南へ南へと向う。
宣羅の国境を越えられれば、追っ手に捕まることはない。
途中何度かほんの少しの休憩だけを取り馬を走らせて国境の砦へと辿りついた時、成花の胸にこのまま国境を超えられるのではないかという期待が過ぎった。
成花は汪嗣の後ろから国境の砦を見つめ、高鳴る胸を押さえる。
一歩一歩、国境へと近づくと人の気配はほとんどなく、砦の前に兵士が常駐する小屋が並び鄙びた雰囲気を醸し出している。
どこか閑散としたその風景に成花は微かに眉を顰めた。
馬の蹄の音が黄昏の中静かに響き渡り、国境の砦を守る警備兵がこちらを見やるとゆっくりと手を上げ馬を止めるようにと促した。
山間に建てられた高くそびえる門は固く閉じており、夕刻を過ぎた為か通行は出来なくなっているようだった。
「門を開けることは出来ない。 開門は明日の朝、辰の刻(7時)だ」
馬を下りた汪嗣が手形を差し出すと、兵はそう言いまた門の前に戻って行く。
どうにか開けてもらえないかと汪嗣が言うと、ただ黙って首を振るだけでそれ以上話をするつもりはないようだった。
急がなければ追いつかれてしまう。
だが門を開く事は到底出来るはずもなく、汪嗣は深く溜息を漏らし手形を布袋へと戻した。
「汪嗣・・・・・」
「仕方がありません。 先程通った村まで戻りましょう」
馬の上に跨ったままの成花を見上げ、汪嗣が安心させるように静かな笑みを浮かべた。
その笑みに釣られるように成花が微かに微笑み頷くと、汪嗣は馬を引き来た道を戻り始めた。
段々と薄暗くなってゆく道に成花が不安げな様を見せるとまた安心させるかのように優しい目を向けてくれる。
その眼差しだけで胸が温かくなる、そして汪嗣がいれば怖くないと思える。
身一つで、頼るものは何もないというのに不思議と先の不安は感じなかった。
ただこうして一緒に居られる時間が愛おしくて、嬉しい。
「村まで戻れば宿もあるでしょう。 お疲れではありませんか?」
「いいえ、大丈夫です。 汪嗣は? 眠っていないから、疲れたでしょう?」
そっと成花が身を屈め顔へと手を伸ばすと、汪嗣が握っていた手綱を持ち替え成花の指先を掴んだ。
力強い手の感触に知らず安堵の息が漏れる。
草花を扱う仕事だったからか汪嗣の指先は酷く荒れていて、ところどころには小さな傷が見えた。
だがその手に強く握り締められると、それだけで胸が震える。
「汪嗣・・・・」
自然と握られていた手を離し、汪嗣の頬に触れる。
陽に焼けた褐色の肌の感触が心地良くて、にっこりと微笑を浮かべると頬に当てた手を取られ軽く指先に汪嗣の唇が触れた。
かっと指先が熱くなったような気がして思わず手を引っ込めると、汪嗣の顔から苦笑が零れた。
そうしてしばらく戻ると寂れた集落が見えはじめ、そろそろ夕餉の時間なのか家々からいい匂いが漂ってくる。
知らず成花はお腹を押さえ、辺りを見渡した。
「あそこが宿のようですね。 行ってみましょう」
汪嗣が指差したのは泥で固められた大きめの建物で、隣にはどうやら厩もあるようだった。
たくさんの人の声も聞こえてくる。
馬を馬房に繋ぎ汪嗣が成花の手を引き宿屋の扉を開くと、一瞬声が静まりかえり10数人の人達がこちらを振り返って2人を上から下まで眺めた。
驚いて汪嗣を見上げると、大丈夫と言う様に頷かれ宿の中へと足を踏み入れる。
人の目がやけに絡み付いているような気がした。
食べ物の匂いと酒の匂い、そして汗の匂いが混じっていて気持ちが悪い。
客はほとんどが男で、数人の女性が混じっているがどうやら娼婦のようだった。
女が汪嗣を見て顔を輝かせ、だがその隣にいる成花を見ると途端に顔を顰め鼻を鳴らして横にいる男にしな垂れかかっている。
女たちの服装は皆一様に婀娜っぽく、髪もわざと解しているように見えた。
その中の1人が気だるそうに立ち上がり、2人の傍に近寄って眉を顰める。
「ここは売春宿だよ。 女を買う気がないなら出ていきな・・・・と言いたいところだが、あんたら国境越えしたいんだろ? この辺りにはもう宿はないからね、金を出すなら部屋を貸してやるよ」
この宿の主なのか女は首を傾げニヤリと笑うと、片手をひらひらとさせながら差し出した。
その言葉に息を呑み目を瞠る成花に、女が軽く眉をあげ口元を歪ませる。
中年の域に達しているのだろうが、その仕草はやけに卑猥で色を感じさせた。
「あんた器量良しだね。 この子を置いていくならタダで泊めてあげるよ、男でも喜ぶ客は多いんだ」
汪嗣の腕にしがみついた成花にそう言って女が手を伸ばすと、途端に男達の野次が飛ぶ。
だが汪嗣が成花を守るように後ろに隠し、前に一歩出ると興ざめしたようにまた自分達の世界に戻っていった。
「金は払う。 部屋を貸してくれ」
汪嗣が布袋から数枚のお金を差し出すと、女は満面の笑みを浮かべそれを受け取り深く頭を下げた。
嬉しそうにしている女を目の前にして成花は堪らず汪嗣の背に寄り添い額を押し付け、小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
王宮で下働きをしていた汪嗣は、給金などほとんどもらえなかったはずだ。
そして時折もらえるそれをコツコツと貯めていたに違いない。
毎日毎日泥をいじり草を刈り、汗水垂らして貯めたそのお金を使わせてしまうことが酷く辛かった。
だがごめんなさいと呟いて、背に額を寄せ項垂れた成花に汪嗣はふっと笑みを見せると成花の手を取りぎゅっと強く握り締めた。
口数の少ない汪嗣が時折こうして見せてくれる笑みが、罪悪感を感じていた心を和らげてくれる。
ぎこちない笑みを浮かべる成花の頬にそっと指先を触れさせ、汪嗣はまた静かな微笑を浮かべふわりと髪を撫でた。
そして女の案内で奥に隠された細い階段を上り、狭くあまり清潔とは言えない薄暗い部屋に入ると汪嗣は顔を顰め後ろの成花を振り返った。
「やはりもう少し戻って他の宿を探しましょう。 こんな部屋に貴方を休ませるわけには・・・・」
壁には蜘蛛の巣がはり、窓枠に掛けられた元は白かったであろう布は茶色く変色している。
決して清潔で居心地が良いとは言えなかったが、成花は汪嗣の言葉に首を振りにっこりと笑って見せた。
「大丈夫。 汪嗣、私は元々貧しい村の出です。 むしろ・・・なんだか懐かしいくらい」
「こんな部屋で悪かったわね。 横になれるだけいいだろ。 他の宿を探してたら2里はかかるんだよ。 それよりあんた達、腹減ってるでしょ。 今何か持ってくるから」
女は汪嗣の言葉に呆れたような顔をして、だが元は気のいい人間なのかそう言うと足早に部屋を出て、戻ってきた時には二人分の食事を持って来てくれた。




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